独立行政法人国際協力機構(JICA)が主催する「ユニバーサルスポーツフェスティバル」。実は、日本で開催されるよりも早く、東南アジアのラオス人民民主共和国(以下、ラオス)で開催されたイベントでした。
ラオスでユニバーサルスポーツフェスティバルを開催し、日本での開催も支援を行っている「特定非営利活動法人NPO アジアの障害者活動を支援する会(以下、ADDP)」。
今回は、ADDPの事務局責任者である中村由希さんに、ADDPの活動と現地のユニバーサルスポーツが取り入れられたきっかけ、そして今後の展望を伺います。
取り残されていたアジアの発展途上国の障がい者を支援する
ーーはじめに、ADDPの概要について教えてください。
中村)ADDPはアジアを中心に活動する障がい者支援活動団体です。先進国と比較して障がいを持つ方が社会に取り残されていたアジア・アフリカ、太平洋の途上国に目を向けようという気運の高まりに合わせ、1992年に創設されました。創設当初から障がいを持つ若者が自分たちで努力して発信力を強めていくためのリーダーシップ育成セミナーをアジア諸国で開催しています。
ーー中村さんはどのようにしてADDPでの活動をはじめたのですか?
中村)私がADDPに入ったのは2000年頃です。ADDPを立ち上げたのが私の父で、母が会長をしていたので、初めはお手伝いのような役割で関わり始めました。
元々、JICA(国際協力機構)で研修員をサポートしたり通訳をする仕事をしていました。私は主に途上国の障がい者のリーダーコースを担当していて、途上国の状況や障がい者たちが置かれている環境については知る機会が多くありました。
その過程で「少しずつ障がい者支援に興味を持つようになり、発展途上国に行って直接障がいを持つ人たちをサポートをしたいと思うようになりました。気づけば、今では20年以上も活動に関わっています。
スポーツが生み出した自立を促すサイクル
ーーADDPで障がい者スポーツ振興支援を行うようになった経緯を教えてください。
中村)私たちは、1997年にラオスで障がい者リーダーシップセミナーを初めて開催しました。当時のラオスは周辺国で障がい者情報を収集しようとしても、障がい者がどのような環境に置かれているのか全くわからない状況でした。
日本の厚生労働省に当たる保健省に問い合わせて「不発弾で負傷した方などが治療で集まるリハビリテーションセンターがある」と教えていただいて、そこでようやく障がいを持つ方々と出会いました。不発弾で片足になってしまった人や爆弾の破片で全盲になった人たちが12人くらい集まっていました。
ーーそこに集まっていた彼らの様子はどうでしたか?
中村)とても暗い顔をしていました。彼らには人と繋がれる場所がリハビリテーションセンターしか残っておらず、地元に帰っても友達もいない、教育も受けられないという環境に置かれていました。彼らには誰かと関わる機会が必要だったんです。
この状況をどうしたら解決できるのか考えた結果、スポーツを、中でもチームスポーツを振興するのはどうかと思いつきました。チームスポーツは強くなるために、メンバーが集まり、一緒に練習しなければいけないので、そのスポーツが、障がいのある人がみんなで集まるきっかけとなります。活動を通して仲間を作ったり、自信を高めたり、心身的な成長にも繋がります。
そこで全日本車椅子バスケットボール連盟さんに相談し、古い車いすや指導するためのコーチを派遣してもらうなどご協力いただいて、車いすバスケットボールを普及する活動を始めました。彼らはまだ若かったこともあり、車いすバスケットボールに触れるとみんな気力に満ち溢れてました。
みんなすぐに夢中になりました。始めは軽度の障がいを持つ人だけでしたが、チームを作るために、より重度な障がいを持つ方を探し出すようになりました。寝たきりのような重い脊髄損傷の方もいましたが「俺たちがサポートするから」と言ってどんどん仲間を増やしていきました。
一緒にスポーツをする中で、支え合いが自然と生まれたんです。車椅子バスケットボールは導入する上ではハードなスポーツで、普及するにはハードルが高いスポーツでしたが、やってみてもらってとても良かったと思います。
ーー車いすバスケットボールを通して、自発的に行動を起こすようになったんですね。
中村)そうですね。ただ、当時の彼らには「就労」というもう一つの不安を抱えていました。障がい者の職業訓練学校がまだ設立されたばかりで、就労のモデルもないという不安定な状況に置かれていたんです。ラオスは障がいがあっても政府から年金や補助金がもらえないから、生活するために働かなくてはいけません。
でも、彼らはスポーツを通して心身ともに健康になって、前向きに就労に取り組んでいきました。この車いすバスケットボールチームを自分たちの力で育てたい。指導者も不在でラオス側からのサポートも全くない中で選手だけが突出して頑張って、仕事も探して、自ら工場を開業する子まで現れた。スポーツを通じて自分に自信を持って、仲間ができて、就労したい、働きたいと思わせる気持ちが芽生えた。スポーツを通して彼らに力がついて、どんどんいいサイクルが回るようになりました。
皆さんがおっしゃるように、スポーツの力には物凄い力があると私もこの経験を通して学びました。障がいのある若者たちが、いつも自信がなく、社会から取り残され、暗闇の中にいたそんな彼らがスポーツを通じてこんなにも強くなって、国際大会にも出て、就労にも力を入れるようになった。障がい者が自立するための一つのロールモデルになりました。
ーー目標がスポーツだからこそできることですね。スポーツをやりたいとか車椅子バスケットボールを続けたいという気持ちがあって、そのために働こうとか頑張ろうという気持ちが湧いてくる。とてもいいサイクルだと思います。
誰でもできるユニバーサルスポーツ。プレーする側とサポートする側に起きたポジティブな変化。
ーーユニバーサルスポーツに力を入れるようになった経緯を教えてください。
中村)私たちはラオスの教育スポーツ省という日本の文部科学省にあたる省庁と連携して、パラスポーツの選手層を充実させるためのプロジェクトを始めました。「障がい者スポーツ」の担当が保健省から教育スポーツ省に移行し、国際大会でメダルを取れるように選手や指導者の強化を図ろうという機運が政府の中にも高まっていたタイミングです。しかし、教育スポーツ省に勤める人たちはスポーツには詳しくても障がい者には詳しくありませんでした。
そのため、まずは選手やトレーナーの数を増やすことを目的に、教育スポーツ省と地方の役人が協力して、ラオス全土にいる障がい者のスポーツの入口を作る仕組みづくりから始めました。ところが、地方の障がい者は保健や医療、学校にもアクセスできない中で、家族の比護を受けながらひっそりと暮らしているような状況でした。車いすバスケットボールのようなパラスポーツを始められる余裕はありません。そんな彼らでも楽しくたくさんの人と一緒にできるスポーツとして、私たちはユニバーサルスポーツに注目しました。
ーースポーツを単にやってもらうこと、楽しんでもらうことにはまた違った難しさがある。そこに障がいの有無がさらに重なってくると、より難しくなりますよね。ユニバーサルスポーツを用いることで、そのハードルは比較的越えやすくなりますよね。
中村)以前から関わりのある専門家やコーチの方々から「リハビリが終わった人は自信がなくて、もうスポーツなんかできないと思い込んでいます。彼らにもう一回スポーツやりたいというモチベーションを持ってもらうことが入口になる」という話を聞きました。
あまり知られてないのですが、日本は障がい者スポーツ指導者養成システムがとても発展していて、障がい者スポーツの活動にもユニバーサルスポーツが活用されています。そのことを私は以前から知っていたので、ラオスで障がい者スポーツの入り口作りに、ユニバーサルスポーツを使ってみようと考えました。
それに、ユニバーサルスポーツのルールってとてもわかりやすいんですよ。知的障がいや発達障がい、脳性麻痺のような重度の障がいを持っていても、誰でもプレーできるんです。なので、ユニバーサルスポーツのイベントを地方で開催してもらう時には、なるべく多様な障がいがある人に参加を促しました。。
運営する各県の教育スポーツ局の指導者の皆さんに「視覚障がい者の方や車椅子を使っている人たちを探してください」「知的障がい者の方も探してください」と。もちろんサポートする側は大変です。イベントをする前に4日間ぐらい各障がい種別の特性やサポートの仕方を学ぶ必要もありますから。でも、皆さん楽しみながら上手にやってくれました。
この活動を通して各県のスポーツ局の担当者たちにも、障がいに対する理解が深まりましたし、パラ水泳やボッチャなどの代表選手も草の根のこのユニバーサルスポーツ普及イベントから輩出することもできました。
ーーユニバーサルスポーツから代表選手の輩出にまで繋がるのは凄いですね!
中村)ラオス政府やパラリンピック委員会の目的は選手層を充実させること。私たちの仕事はユニバーサルスポーツを活用して障がい者の方々がスポーツを楽しむきっかけを作ること、そしてその活動を通じて、選手発掘のお手伝いをすることでした。
これまで地方出身の選手って全然いませんでした。都市部にしか選手もいないし、出場するのはいつも年齢が少し高い選手ばかり。でも、やっぱり色々な人が出てこないと国のパラスポーツは強くなって行きません。ユニバーサルスポーツを通じて国中から選手を探すことで、たくさんの障がい者がスポーツの楽しさを知って、どんどん選手層が厚くなりました。
協力して共に活動をしてきた教育スポーツ省の各県の担当者もみんな頑張って選手を探してくれましたし、ユニバーサルスポーツを使ってもらうことで私たちの目的も達成できた。お互いにとって良い結果になったと思っています。
ーーイベントを繰り返し開催していく中で、参加する人が増えたりなどの変化もあったと思うんですけど、その中で中村さんはどんなことを感じましたか?
中村)イベントや指導者養成の規模を広げたり、ゴールボールなどのパラスポーツも何種類か経験したりするうちに、各県の障がい者スポーツの指導者もヴィエンチャンに来てパラスポーツを理解して、今度は彼らもパラスポーツの指導者になりたいという目標を持つようになりました。
けれど、パラスポーツを指導するためには、まずユニバーサルスポーツを理解し、草の根で障がい者を発掘する仕組みになっています。各県の障がい者スポーツの指導者の頭の中には、「新しい層を開拓するにはユニバーサルスポーツを使うべきだ」という考えが自然と理解されています。ラオスでは草の根のユニバーサルスポーツとエリートのパラスポーツを同時に進行させることが普通になっているんですよね。それがとても嬉しいです。
地方の県で障がい者スポーツを普及するために奮闘している指導者たちはは障がいのある人たちをスポーツに繋げていくんだっていうやりがいを持って日々頑張ってくれています。優秀な選手がいても、サポートする人たちがいないと発掘も成長もさせてあげられません。選手層を増やすためにどういうことをすればいいか、どの国も悩んでる。
でも、ラオスの場合はサポートをしてくれる人たちが草の根の活動をするために何が必要か分かっている。ユニバーサルスポーツという方法が一つのアイディアとして確立されているのは、すごくいいことじゃないかなと私たちは思っています。
それは健常者と障がい者が村単位で一緒になってお互いのことを理解したり、啓発することにも繋がりますからね。パラスポーツとユニバーサルスポーツの両方をやることはあまりないですから、ラオスは良いサイクルが出来ていますよね。
どんな障がいがある人も取り残さない社会づくり
ーーこれまで色々な活動をされてきたと思うんですけど、今後ADDPで中村さんが取り組みたいみたいなことを最後にお伺いしてもよろしいですか。
中村)私たちは今、インクルーシブ教育向上のプロジェクトを行っています。就労の前に質の高い教育を受けられる環境はとても大切です。身体障がいの子や耳の聞こえない子、知的障がいの子というのは、ラオスだと教育機会が十分に与えられていません。そもそも最初の入口のところで差別されることもある。教育を受けた後、就労に移行するための支援の仕組み作りがラオスには必要です。
スポーツをしていた障がい者の方たちは、用具もない大変な状況の中で頑張って自立していきました。ただ、もちろんスポーツにも参加できない障がい者たちもいます。私たちは彼らのための教育支援に今一番力を入れています。
また、このような状況のため、先生たちの障がい者に対する理解を進めたいと思い、教員養成プロジェクトにも同時に取り組んでいます。
ーースポーツに教育や就労を掛け合わせて、ラオスの障がい者支援の取り組みを進めているのですね!
中村)そうです。ADDPではクッキー工房やカフェなどの障がいを持つ人に仕事の場を提供する事業も行っているんですが、そこでパラアスリートも積極的に雇用しています。アスリートは障がい者の可能性を広める使命を帯びていると私は思っていますし、彼らには色々と発信していってほしいですね。今はたくさんのアスリートが育ってますから、彼らの就労も応援したいと思っています。
やっぱり教育と就労において様々なロールモデルを作りたい。どんな障がいがある人も取り残さない社会作りが、今のラオスでADDPにできる役割だと考えています。
ーーありがとうございました!