箱根駅伝は、正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」で、年に一度1月2日と3日に開催されます。関東学生陸上競技連盟が主催し読売新聞社が共催し、全国大会ではなく”関東ローカル大会”である。東京都大手町の読売新聞東京本社ビル前をスタート地点にし、神奈川県箱根町の芦ノ湖をゴールとする、往路・復路の合計10区間217.1kmを走る競技です。
この記事では、その歴史や楽しみ方を紐解いていきます。
箱根駅伝の歴史
「東京箱根間往復大学駅伝競走」(以下、箱根駅伝)は当初、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、東京高師(現筑波大大学)の4校が応じ、1920年2月14日午後1時に第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称でスタートしました。
回数を重ねるごとに参加学校数は増え、現在ではオープン参加の関東学生連合を含めた21校が参加し、毎年多くの人々が注目するビッグイベントとなっています。
さまざまな歴史をそのそばで見てきた箱根駅伝は戦時下で一時中断を挟みましたが、次回大会で“100”回目を迎えます。
箱根駅伝 誕生のきっかけ
新聞社のプロモーションだった?
そもそも駅伝が誕生したきっかけは、東京を都に変遷して50周年を記念する事業「東京*奠都五十年奉祝」が1917年に開催されたことでした。
各新聞社が協賛事業を計画する中、当時まだ発行部数が少なかった読売新聞社は、すでに大量発行していた朝日新聞や毎日新聞に劣らない企画を実施し、宣伝につなげたいと考え、提案されたのが、【三条大橋(京都)から不忍池(東京上野)を継走していく】という前代未聞のイベントです
<*奠都(てんと):新たに都を定めること>
ゴールはいまと変わらない大観衆
「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」は、23区間に分けて3日間昼夜問わず走り抜くもので、東西対抗(関東・関西)で行われました。
その走行距離は、なんと約500km。
当時も現在の箱根駅伝と同じように沿道には応援する人があふれかえる状況だったといいます。
関東チームのアンカーを務めた金栗四三も、先導の自動車が人垣をかき分ける中をなんとか走る有様。
そしてスタートから約44時間が経過した29日の昼前、金栗四三がゴールである上野不忍池に飛び込み、初の駅伝大会の勝敗が決しました。
さらに広がる駅伝
この駅伝競走が大成功を収めたことで、「東海道駅伝徒歩競走」でも活躍した金栗四三をはじめとする多くの人々が、日本の長距離走のレベルアップを目指すために新たな競技を創設することを考えました。そこで、大学や師範学校、専門学校に呼びかけて参加者を募り、1920年2月14日に第1回「四大校駅伝競走」として開催されたのが箱根駅伝の始まりです。
その後、戦中・戦後を除いて毎年続けられると同時に、1950年には全国高校駅伝が、1957年には全日本実業団駅伝(通称ニューイヤー駅伝)が始まるなど、駅伝という文化は学校・企業・地域の枠を越えて全国に広がっています。
箱根駅伝のコース
箱根駅伝のコースは、往路が東京都大手町の読売新聞東京本社ビル前から神奈川県箱根町の芦ノ湖までの107.5km、復路が神奈川県箱根町の芦ノ湖から東京都大手町の読売新聞東京本社ビル前までの109.6kmの計217.1 km。
コースは標高差が多く、特に箱根の山を駆け上る5区は大会の一番の見どころと言ってもいいポイントです。
学生三大駅伝(出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝)の中では一番距離も長く、選手にとって、非常に過酷な大会となっています。
<詳しくはこちら>
○往路(1区~5区)
○復路(6区~10区)
2023年(第99回)大会を振り返る
往路復路ともに、駒澤大学が盤石の走りを見せ、合計タイムで2位の中央大学に1分42秒差をつけて、2年ぶり8回目の総合優勝。
駒澤大学は、出雲駅伝と全日本大学駅伝も制していたため、史上5校目の大学駅伝三冠を達成しました。
個人の部では、東京国際大学4年生のイェゴン・ヴィンセントが4区で区間新記録で在学中、異なる3区間で区間新樹立。箱根ファンに衝撃を与える最強留学生でした。
<往路 順位変遷>
<復路 順位変遷>
※関東学生連合はオープン参加
(繰り上げ 8→9区:関東学生連合 9→10区:専修大学、国士舘大学、関東学生連合)
気になる速報の追い方
箱根駅伝の速報を追うには、テレビやラジオの中継、インターネット上のニュースサイトやSNSなどがあります。
また、公式HPではリアルタイムで順位やタイムを確認することができます。
大会当日には、ライブ配信も行われるため、スマートフォンやパソコンから視聴することができます。
大学によっては、精力的にSNSで情報を発信を行っており、そこでもレースの状況であったり、選手の素顔を垣間見ることができます。
公式HPをチェック
箱根駅伝の公式HPは、以下のURLからアクセスできます。