いつ発生するのか予想のできない、そしてすべての人が体験し得る自然災害。
「災害時、何ができるのか?」「どんなことが支えになるのか?」を知るべくこの企画は始まりました。
第一回である今回は、Sports for Socialで活動する佐々木健汰の想いをお届けします。
10年前、小学5年生の時、宮城県石巻市で東日本大震災を経験。多くの人はきっと知らないであろう被災地の状況や経験を、今の自分の言葉で語ってくれました。
あれから10年、彼は何を想って生きているのでしょうか。
目をつぶりたくなるできごと
ーー震災当時の様子を教えてください。
佐々木)被災時は卒業式の準備をしていました。海までは歩いて15分くらい、課外授業で行けるくらいのところに学校がありました。
佐々木)感じたこともないような揺れで、机の下に潜りました。みんなの泣き喚く声が聞こえる中、僕はある程度体も大きかったので、大丈夫だよと声をかけながら隣の子の机も一緒にがちっとつかんでいました。
揺れが収まってから、一度グラウンドのほうに避難して、見るとレンガの建物の壁が崩れ落ちて、古い家は津波が来る前から倒壊しているような状態でした。
その後、体育館に避難しました。絶対に体育館から出さない、というのが学校の方針だったようです。今考えると、海から歩いて15分の体育館なんて窓ガラスが割れて津波が入っていまいそうですが、当時偶然にも改修したばかりだったので、1.5m(大人の胸元ほど)の波にも流されず、津波の様子を体育館の中から見ているような状況でした。中には、人が流されているところを見たと言う人もいます。
一晩が明け外へ出ると、あちこちに瓦礫が散乱、車が横転し、海の独特な匂いで町は充満していました。あちこち家も、跡形もなく流されています。先に出てきた大人がござをかけてくれてはいましたが、道路に亡くなった人が横たわっている場面もありました。実家の前にある木に、大きなワゴン車が引っかかっていました。あの木がなかったら、僕の実家も跡形もなくなっていたと思います。
被災後、携帯電話も繋がらず、いたるところに掲示板がありました。
家の近くに住んでいた祖母が、行方不明になりました。あらゆる掲示板に書いて、知人にも聞いて回って。それでもいなくて死んでしまったのだと思い、泣きながら探していたら、隣町でたまたま高台に避難できていたそうです。帰って来たのは被災から4日後。ヒッチハイクで帰ってきました。
当時はみんな何もわからない中で、それでもなんとかするしかない、と必死でした。
カップラーメンの温かさ
佐々木)震災後3日間くらいは避難所での生活でした。
地方の田舎ということもあり、避難所という避難所は少なく、教室や廊下に身を寄せ合っていました。僕は小学校の図書室に避難しましたが、3畳程のスペースに、6人で寝ているような状況です。宮城県は、3月でも雪が降ります。しかし、毛布は1枚しかありませんでした。被災した次の日のご飯は、3人でたった1枚の食パン。そんな生活が2日くらい続きました。
2日後、隣の家の人からカップラーメンをもらって、母と半分ずつに分けて食べました。「あったかいね」と、泣きながら食べたことが印象に残っています。
今、何も考えずに食べているモノですが、温かいものをなかなか食べれない状況だったので、自然と涙が出てきました。
被災後の生活
佐々木)僕の家は、幸いにも新興住宅地で、周りに家もたくさんあった関係で、床上浸水(徐々に水が入ってくる状態)で済みました。家具や家電はダメになりましたが、家の外は無事でした。学校どころではなく、3か月くらいはひたすら家の片付けでした。
水も出なかったので、近所の子ども達で、給水所のところにウォーターサーバーやペットボトルを持っていき、水を家に運ぶために何往復もしたのを覚えています。汚い話になりますが、トイレを一度で流すことが勿体ないことだったので、ティッシュは別で捨てて、何回か分をまとめて流しました。お風呂は、近所の子どもたちで集まって、子ども用のプールで一斉に身体を洗っていました。
食事の面でも、飢えをしのぐような生活が1週間から2週間続きました。スーパーから、流された缶詰を持ってきて食べる人もいれば、流された自販機を壊して飲み物をとっている人もいました。ボランティアの方の配給を食べて生活する人もいました。
当時、ボランティアの方々は料理をふるまってくれたり、ものを運んでくれたりしました。家の片付けをする際も、近所の方が手伝ってくれるなど、被災後の生活は、人の温かさを感じた瞬間でもありました。
子どもながらに感じた絶望
佐々木)石巻市の隣・女川町には、20mの高さの津波がきました。僕の従兄弟家族はそこに暮らしていました。その従妹は3人兄弟で、上から2人の従妹はその時たまたま女川町にいませんでした。当時高校生で、1番年も近く、「にいちゃん」と呼び慕っていた従兄弟は当時駅にいて、年を取った祖母と曾祖母を助けるために家に向かいました。
そして、高台の家に連れて行ったそうです。しかし、20mの高さには高台も関係なく、にいちゃんは津波にのまれて発見されました。
話を聞いた途端、「にいちゃんが死んだ」と泣きじゃくりました。
僕が遺体安置所に行ったのは3日後のことでした。
遺体安置所にはずらっと遺体が並んでいて、ゴザがかけられている状態でした。
遺体は、水中で大きな家具が頭に当たったらしく、顔はやつれている状態で見つかりました。目をつぶりたくなるあの感じ、そしてあの冷たさは一生忘れることはないです。
そのときにいちゃんの両親でもある伯父と叔母にも会いに行きました。伯父と叔母は、役場の職員だったので、避難生活やケガした人の対応に追われ、そのおかげで気を紛らわすことができたと言っていました。
ーー小学5年生でそんな体験をしたのが自分だったらと思うと、考えられないです。
佐々木)子どもながらに自然に対する無力さ、にいちゃんが死んだことに対する絶望を当時はずっと感じていました。この思いをどこにぶつけたらいいかわからないし、学校や野球以前に生活できるか分からない。
より命の大切さや、生きることに対しての実感が湧いた経験です。
地元の高校で甲子園へ行こう
佐々木)震災の翌年の2012年、石巻工業高校が21世紀枠で3月の選抜甲子園へ出場しました。当時、選手宣誓もしたキャプテンがちょうど知り合いで、甲子園にも応援に行きました。これがきっかけで、「地元の高校で甲子園に行こう」と心に決めました。
僕は、ある程度進学校で、野球の勢いもあった地元・石巻高校に進みました。1年生の時は県ベスト4、1年生の秋には僕がエースとして出場し、ベスト8に入りました。その時、21世紀枠の候補に入ることもできました。
甲子園出場は叶わなかったものの、石巻というブランドを背負って野球をしていました。
見せましょう、東北の底力を
ーー被災後、励みになった出来事はありますか?
佐々木)野球をやっていたことも関連しますが、大好きだった東北楽天ゴールデンイーグルスの当時のキャプテン嶋基宏選手が『見せましょう、東北の底力を』と開幕戦の時に仰っていました。「野球がこんなに勇気を与えれるんだ、僕も頑張ろう」と思いました。
その後、2013年に初めて日本一になった時、僕の中でも野球に対する熱は大きくなりました。
「楽天が優勝したぞ。俺らも頑張ろう」
自分がピッチャーをやっていたこともあって、「マー君かっけー!俺もマー君みたいになりたい!」と思っていましたね。
あの優勝は宮城県民にとっては大きな出来事で、何をするにも東北が一丸となり、前を向くきっかけになりました。
スポーツの力や、野球の力を感じられた出来事でした。
編集部より
話を聞くにあたり、改めて当時のことを思い出してもらいました。
同世代で、被災した方の話を直接聞くのは、とても貴重な機会で、自分だったらどうしていたんだろう、そんなことを考えました。
そして何より、人の温かさや、野球の力を感じた、と話していたのが印象的でした。
そんな力を伝えられるような記事を投稿していきたいです。