今回のインタビューは、フットサル選手からデフフットサル女子日本代表監督へ転身した山本典城(やまもと・よしき)さん。
2015年にデフフットサル・デフサッカーにおいて日本史上初のW杯予選突破した背景には選手たちのマインド改革がありました(その後、2019年にはアジア大会優勝、W杯5位)。
障がいのあるなしに関係なく、どんな人でも平等にスポーツを楽しめスポーツを通して夢や目標を持つことができる。そのような共生社会をつくるための挑戦についてお話を伺いました。
触れ合う機会があれば、相手のことを想い合える
ーー山本さんは元々フットサル選手として長くプレーされていたと伺いましたが、その当時からデフフットサルにも興味を持たれていたのですか?
山本)恥ずかしながら当時は障がい者スポーツのことをほとんど知りませんでしたし、指導者になるというビジョンも全くありませんでした。2012年にろう者の方々が主催した東日本大震災の復興チャリティーイベントにゲストチームとして参加させていただいた時に、ろう者の方もプレーされていて、そこで初めて障がいのある方が同じようにフットサルをされているのを見て日本代表があることも知りました。
ーー初めてろう者の方がプレーされているのを見て特にどんなシーンが印象に残っていますか?
山本)耳が聞こえないまたは聞こえにくい方が自分と同じようにフットサルを楽しんでプレーしている姿がとても印象的でしたね。その時に日本ろう者サッカー協会の方と出会い、その後お話しする機会が増えてデフフットサルやデフサッカーがどのような環境にあるかを知りました。障がいのある方が思いっきりスポーツに打ち込みたいと思ってもそれを実現できる機会や場所が少ないということを聞いて、「何かおかしいな」と感じたんです。
障がいのあるなしに関係なく、どんな人もスポーツを楽しめたりスポーツを通して夢や目標を持つのはみんな平等にあるべきだと思いましたし、そんな環境が日本にも増えてほしいと次第に強く思うようになりました。
ーー山本さんご自身のマインドが変わるきっかけが、偶然参加した東日本大震災の復興チャリティーイベントだったわけですね。それ以前は障がい者スポーツに対してはどのような印象を持たれていたのでしょうか?
山本)正直に言うと、自分自身の身近にあるものとは捉えられておらずあまり関係のないものとしか考えられていませんでした。パラリンピックがあることは知っていましたが、障がい者スポーツの背景や歴史については無知でしたし、デフリンピック(聴覚障がい者のオリンピック)があることも当然知りませんでした。
パラリンピックがテレビで放送されていてもどこか違う世界の出来事というか。障がいのある方がスポーツをしていてすごいな程度の浅はかな視点でしか見ることができていなかったと思います。
先ほどお話ししたことと関連するのですが、障がいがあるから何もできないということではなくて、障がいのある方も自分たちと同じようにスポーツを目一杯楽しんでいる姿を見た時に、「実は自分の方が変に気を遣っていて障がいのある方へ自分から壁をつくっているのではないか」と感じたんですよね。
ーー確かに気を遣わないといけないと思うことで、知らず知らずのうちに生まれている『壁』はあるかもしれませんね。その『壁』はどのようにすればなくなるのでしょうか?
山本)自分の場合は障がいのある方と実際に接する中で「ああ自分たちと何も変わらないんだ」と思えた瞬間に、壁がなくなっていくのを感じました。
結局は触れ合う経験がないから相手のことがわからず理解できないだけで、理解し合えればお互いに何を求めているのかも分かってくると思います。ただ今の日本社会では聴覚障がい者だけを考えてみても、耳が聞こえないとわかると一般的な公立や私立の学校ではなくろう学校に行くケースも多いですよね。
そうなると、一般的な公立や私立の学校に通っている子どもたちが聴覚障がいのある子どもたちと接する機会が少なくなってしまう。だから、聴覚障がいを理解する機会もないし、そのような分断が続いてしまうことで結局大人になってもお互いの理解が深まらないと思うんです。
ーー確かに子どもの頃から分断されて大人になってしまいますね。
山本)本当はお互いが理解し合うのはとても簡単なはずなんですね。何かわかないことがあっても「わからないから教えて」と聞くだけでいいはずなんです。障がいのある方も本当は聞いてほしいけど、自分からは「何がわからないのか教えて」とは言いづらい場合もある。そういうことを経験して気づいていく中で、自分の内側にあった壁の感覚はますますなくなっていきましたね。
ーー障がいのある方とない方が接したり話し合えたりする機会がもっと増えていくことで、日本の社会のいろいろな所にあるマインドの『壁』もなくなっていく可能性があるということですね。
徹底したマインド改革から史上初の予選突破へ
ーー冒頭で、指導者になるビジョンはもともとなかったとお話しされていたのですが、どのような経緯でデフフットサル女子日本代表監督になられたのでしょうか?
山本)日本ろう者サッカー協会の方との出会い、その後自分のマインドが変化していく中で「何かお手伝いできることがあればいくらでも協力しますよ」とまだまだ受け身の考え方でしたが協会の方とお話しをしていました。ちょうどそのタイミングが監督交代の時期だったようで協会の方が私がフットサル選手であったというキャリアを知り、声をかけていただいたのがきっかけでした。
ーーそこからすぐに代表監督になられたのですか?
山本)半年間はこの話を受けるか悩みました。自分もフットサルの競技選手をやってきた中で、日本代表は常に憧れの場所でその重みや責任も十分にわかっていたつもりです。それまで代表経験のない自分に「その重要な役割が全うできるのか」という不安がまずありました。
そして、障がいのある方と接する機会もほとんどなかったので、本当に自分が「その環境の中でやっていけるのか」という不安もありましたね。
ーーたくさんの不安を抱きながらも、最後は代表監督になると決められたのですね。
山本)そうですね。自分が一生懸命にやってきた経験を活かして誰かのために貢献できるのであればとても幸せなことですし、代表のカテゴリーで何かに挑戦することはやりたくてもやれないことですから。
「障がいのあるなしに関係なくスポーツをする機会は平等にあるべき」という想いも強く持っていたので、自分が何か行動を起こしてもすぐに改善するわけではないかもしれませんが、知ったからには見過ごすこともできないと思いました。
最後はここで挑戦しないと後悔すると思い覚悟を決めましたね。
ーーいざ代表監督になってから最初の頃は苦労されることも多かったと思うのですが、実際にいかがでしたか?
山本)苦労したことはいろいろとありました。特に自分と当時の選手たちのマインドが違いすぎて最初は驚きましたね。自分は日本代表に誇りや責任を強く持っていたのですが、そのようなマインドの選手は当時はほとんどいませんでしたから。
技術的にも足りないところは当然あったのですが、技術的なものを向上させていくためにもマインドや取り組む姿勢を成長させていかないと、どれだけ練習したとしても積み重ねて実力を高めることは難しいだろうと思っていました。
だから、代表合宿を積み重ねる中で技術的なレベルアップを目指し取り組んでいましたが、自分がその時に一番大事にしていた「日本代表とはなんぞや」ということを自分なりに言語化して伝えていた時間が長かったですね。
ーー技術の前に徹底してマインドや取り組む姿勢を改善されたのですね。
山本)まずはそこから始めました。他にも大切にしたのは信頼関係やコミュニケーションですね。聴覚障がいの選手たちとのやりとりもそうなのですが、当時の日本ろう者サッカー協会のスタッフもろう者の方が多かったので、伝えたいことをうまく伝えることができず選手たちが何を考えているかもわからず、孤独を感じる期間が長くありました。
筆談を使ったり書いて消せるブギーボードを使ったり、ある程度口話を読み取れる選手もいましたのでゆっくり話すことで口の動きから読み取ってもらったりしていたのですが、選手のことをもっと理解したいと思い週に1回、当時の選手に協力してもらい、スタッフや手話に興味ある人を集めて手話の勉強会を開いてもらっていました。
同じ時間を共有することで選手たちとの信頼関係も深まり、少しずつコミュニケーションもとれるようになってきました。
ーー代表監督になられてからは、信頼関係を築きながらマインド改革に取り組まれたのですね。その後、デフフットサル女子日本代表チームはどのように変わっていったのですか?
山本)結果として2015年にタイで開催されたデフフットサルのW杯で、史上初の予選突破をすることができました。前回大会優勝のロシア、世界ランキング4位のスペインが同じ予選の組だったということもあり、「日本はどう考えても予選敗退」と言われていたのですがそれを覆しての予選突破でした。
今あらためて振り返ってみても、デフフットサル女子日本代表チームとしても自分自身にとってもその大会が大きなターニングポイントになりましたね。その後、前回の2019年スイスW杯でもタイ大会の成績を上回り5位という結果を得ることができました。
障がい者アスリートの価値を高めるために
ーー2015年のW杯が山本さん自身のターニングポイントにもなったということですが、もう少し詳しく教えていただけますか?
山本)2015年のW杯で初めて障がい者スポーツの世界大会を経験したのですが、それまでは障がい者スポーツは見る人も少ないし、プレイする人も少ないし、応援する人も少ないと思い込んでいました。ところがタイの空港に降り立った時点でデフフットサルW杯が開催されることが一目でわかる大きな看板が出ていて、日本では考えられない光景にすごく驚きました。
いざ大会が始まると、地元のタイ代表の試合はテレビでLIVE放送されていたり、ボランティアの数も大勢いたり。試合でホテルから会場に移動する時も、各国の代表チームのバスを日本で言う白バイが先導して渋滞している道を開けてくれたりと、日本とのギャップがすごく大きくて。大会後に聞いたのですが、障がい者スポーツのW杯にも関わらず国として約2億5000万円を支援していたということを知ってさらに驚きましたね。
ーー日本ではちょっと考えられない光景ですね。
山本)さらに衝撃的だったのがタイとイランの男子代表決勝戦でした。会場に観に行ったのですが、そこで目にした光景が自分が想像していた障がい者スポーツの光景ではなかったんです。まず会場は超満員、しかも地元のタイ代表を応援するためにたくさんの人が入っていたのですが、選手たちは耳が聞こえないにも関わらず応援している人たちは大声を出して応援しているし、試合中ずっと応援歌を歌っているんですよね。
その光景を見た時にハッと気づかされました。自分はまだまだ障がい者スポーツという枠組みでしか物事を考えられていなかったんだと。この経験を経て、「障がいのあるなしなんて関係ないんだ」と心から思えるようになったんです。
だから2015年以降は、「障がいがあるとかは一切言い訳にせず、いちアスリートとしてトップを目指すマインドを持たないと世界には届かないよ」と選手たちに伝え、そのマインドを今も追求し続けています。
ーー初めて代表監督になられた当時も選手のマインド改革から取り組まれたと言われていましたが、2015年以降も新たに選手のマインドの変化を追求されているのですね。
山本)代表チーム以外のデフフットサルチームは日本国内ではほとんど存在していないので、代表合宿でしかトレーニングをしていない選手もいたわけなんですね。でもそんなレベルで世界と戦えるのかというとそんなに甘いものではない。じゃあどこに練習環境があるのかと言うと、現状はやはり健常者のチームに所属することが必要となってきます。
選手たちのマインドが変わり、「何のためにデフフットサルをしているのか?」と自分自身に矢印を向けて問いかけ始めたました。その結果、関東リーグや日本リーグのチームに所属して自ら厳しい環境に身を置く選手も出てきて、今はほとんどの選手が健常者のチームに所属しています。
ーー山本さんも選手たちもマインドの変化から行動が変わり、さらに次の目標に向けて挑戦されているのですね!最後に山本さんの今後のビジョンなどを聞かせてください。
山本)まず代表チームとしては2023年にブラジルで開催されるW杯優勝です。そのチャンスや現実味があることは自分自身も選手たちも2015年タイと2019年スイスのW杯で経験していますので、メダル獲得ではなくトップを目指す、世界一を目指すことを追求していきます。
私自身は所属しているケイアイスター不動産株式会社で、アスリート雇用で入社した障がい者アスリートたちと『ケイアイチャレンジドアスリートチーム』をつくり、活動を共にしています。その活動の中で、選手たち自身が競技で結果を出す以外でも企業や社会に貢献していくマインドや活動をつくっていきたいと思っています。
そして、障がい者スポーツに関わるスタッフのサポート環境の改善にも力を入れていきたいですね。障がい者スポーツに携わるスタッフの中には無償でされている方も多く人手不足にも繋がっていますから。
ーー障がい者アスリートが競技以外でも価値を提供できる場づくりに挑戦されているのですね。
山本)私が行動している時間の中で何かを成し遂げるのは正直難しいのかもしれません。でも、スポーツを通して障がいのあるなし関係なく共に生きている社会を広めていきたいと思っていますので挑戦はこれからも続けます。自分がやっていることが社会にとって意味があると思えていることが原動力になりますので、その想いを大切に情熱を持ちながらこれからも活動していきたいですね。
ーー最後に力強い言葉をありがとうございます。「競技面以外でも企業や社会に貢献できる障がい者アスリートを育てていきたい」という山本さんの気持ちがとても伝わってきました。Sports for Socialでは、山本さんの活動もデフフットサル女子日本代表チームの活躍も引き続き応援しております!
・一般社団法人日本ろう者サッカー協会のHPはこちらより
・山本典城さんの公式ブログはこちらより
・山本典城さんのTwitterはこちらより
・山本典城さんのInstagramはこちらより