Sports for Socialでは、骨髄バンクランナーズに関わる人々の想いを連載として取り上げていきます。
第3回となる今回は、滋賀骨髄献血の和を広げる会で活動されている片岡智一さんです。CMで心動かされ、そこから滋賀骨髄献血の和を広げる会の神山清子さんとの出会い、そしてドナー適合からのコロナ禍での骨髄提供まで。
多くをご経験された片岡さんからは、何より患者さんへの深い想いが感じられました。
私と骨髄バンク運動の出会い
1995年ごろだったでしょうか・・・
当時のACのCMで中堀由希子さんという白血病患者さんの映像が流れてまして、享年21歳というフレーズに心動かされました。骨髄移植で助けられるかもしれないという言葉を知り、健康な自分ができることをやっていこうという思いから骨髄バンク登録をいたしました。
その後、もっと骨髄バンクの事を知りたくて関連書籍を読んでいる中で、滋賀で強力に活動している今の滋賀骨髄献血の和を広げる会・会長の神山清子さんとの出会いがありました。
骨髄バンク運動
神山清子さんの家に押しかけて夜な夜なご自宅でいろんなお話を聞かせて頂きました。
神山さんは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが陶芸家です。神山が作陶しながら夜な夜なお話を聞かせて頂いていた時が懐かしいです。当時はシンポジウムのお手伝い、映画の告知など、そういった活動が多く、ダイレクトに登録者がいたわけではなかったので、今の状況とはかなり違っておりました。
ただ、活動される方は今よりもっと白血病患者さん関係の方が多かったので、健康な私が活動する事に少し引け目を感じていた部分がありました。元患者さん、現患者さんの言葉一つ一つを重く感じ取り、思いに近づきたい一心で今も活動しております。
献血と私
献血について、私は知人よりある団体で献血イベントするので協力して欲しいとの依頼から始めました。人生初献血が成分献血(必要な成分だけを採取する献血で約1時間かかります)でした。最初は「声を掛けられた際に献血する」くらいで頻繁にはしていませんでしたが、白血病患者さんには大量の輸血が必要で、献血も多くがその目的で使われている事を知り、その後頻繁にいくようになりました。
最初は年1回ほどから年に2回になりここ7~8年は年十数回献血をしています。
この血液がどこか患者さんのお役に立てているのなら、非常にやりがいも感じます。
献血の回数が増えるうちに、ただ自分が頑張ってしているだけでなく、普段献血をしていない人を巻き込まないといけないという様に考えがだんだん変わってきました。
骨髄バンク運動で責任を持つ事の意義
私が長く骨髄バンク運動をしている時に、会長の神山から事務局を預かるようになりさらに意識は変わりました。
今まで誘われれば参加していた活動から、自主的に活動参加を募る立場。また会に対して少し責任を与えて頂いた結果、私と接する方が増え、見る世界が変わってきました。骨髄バンク登録会は献血併行型といい献血会場の隣で行います。
やはり献血に来られていますのでまずは献血優先。皆さん、献血したい、人の役に立ちたいという思いをもって会場に来られます。その中で全て骨髄バンクに対していい思いを持ってらっしゃる方ばかりではないのですが、登録に繋がらなくても献血していただいた方の血液が患者さんに繋がっていくそれでも充分です。
また骨髄バンクの説明だけでもいいと思っています。説明聞いてしっかりとご理解頂き、ご検討していただければ次に繋がっていくと思います。
まさかの骨髄バンクより適合通知が・・・
そんな折、2020年の2月に骨髄バンクから適合通知がきました。登録して25年。最初に適合通知がきたのは10年後の2005年。その時も骨髄バンク運動をしておりましたので、喜んで確認検査にいった事を思い出します。それっきり連絡がなく私のコーディネートは終了してしまいました。
それからさらに15年後。もう年齢も40代後半でアラフィフに足を突っ込んでいる私に(笑)
まさかという思いでした。しかし、世の中はしばらくするとコロナ一色でなかなかコーディネートは進みません。確認検査はなんとかパスできましたが、それからなしのつぶて。その間も献血はストップしないといけないのでモヤモヤ感がつづく日々でした。
ドナー候補になりコロナ禍での骨髄提供へ
それから数ヶ月・・・マクドナルドにて一人でくつろいでいた所、コーディネーターさんから電話があり、「片岡さんに骨髄提供をお願いしたい」と!運動続けてきて25年経っており、まさか自分にこのような大役が回ってくるとは思ってもおりませんでしたので、連絡をいただいたときは頭が真っ白でした。
ずっと骨髄バンク登録会で説明してきたことがリアルに体験できるという大きなワクワク感が募り、その後最終同意、術前検査、自己血貯血と進んでいる工程一つ一つにテンションが上がり、コーディネーターさんに色んな質問し続けてしまいました。(笑)
しかし、コロナ禍での骨髄提供でしたので様々なことがありました。まずは、ドナー決定まで通常の2倍以上の日数かかった事、最終同意も採取病院でなく近くの病院で行った事、採取病院も居住地でなく他府県に出向いた事、術前検診も先生の都合で日程が急遽変更になった事、さらには入院日も患者様の病院側の都合で変更になった事、コロナ渦で面会は全てシャットアウトになった事、と思い起こせば色々ありましたが私は勤務もある程度調整できますので全く問題ではなかったです。
初めての入院が骨髄提供!
実は骨髄提供での入院が人生初めてでした。仕事の出張的な気分で行っていましたので色んなものが不足していました。これくらいあるだろうと思っていたものが病院にはないんですね。初日に頑張って買いそろえました。翌日は骨髄採取ですし、家族もコーディネーターさんも面会禁止の為来れないので・・・。
そんな感じでばたばたしているうちに夜になり絶食になり前日の夜は貧血防止のために経口補水液を2本渡されるんです。献血の時に一度飲まされてあまり味もないので好きではなかったのですが頑張って飲んでるうちに500CC2本さらっと飲んでしまいました。
看護婦さんにはもう飲んだのですか!と言われてしまいましたが(笑)
実際一つ一つが初めての経験ですが貴重な経験だったので緊張や不安もなくぐっすり寝れて翌日の骨髄採取を迎えられました。
ただ、手術室にいく時はさすがに緊張しました。今でもその情景は克明に覚えています。
目が覚めた時は部屋に戻っていました。本当に何にもなかったかのように終わってしまいましたし術後幸いにも痛みもなく気分の悪さもなく担当医師には感謝ですね。
人それぞれありますが私は麻酔いつ切れるの?と看護婦さんに聞いたくらいでしたから。
あまりにもあっさり終わってしまったので感慨もあまりなかったのですが、数か月後患者さんからお手紙をいただきました。まだ手が震えるようで、基本印刷されていましたが、最後の2行だけ震える手で書かれたお手紙をいただき、『こんな私でも役に立てたんだ』と初めて自分が誇らしげに感じられました。
これからの目標・・・
それから半年後献血に復帰できました。結局適合通知頂いてから献血を止めてましたから、約1年間以上献血の休止期間がありましたが、最近はまた月1回~2回の献血に勤しんでおります。
そんな折、私の幼馴染が大病にかかり血小板を輸血してもらっているそうです。あの黄色い血小板のバックをみる度に、今日もしっかりと幼馴染はじめ苦しんでおられる方々に届いていくんだなと思うと感慨深くなります。
コロナ禍で献血も骨髄バンクも制約が多くなってきておりますが、どちらも行先は患者さんです。お互いがそれぞれの思いをつなげていき一人でも多くの患者さんの命を救えるように普及活動に取り組んでいければと考えております。
滋賀骨髄献血の和を広げる会
片岡 智一
編集より
25年以上、骨髄バンクの普及のために活動されている片岡さん。『健康な私が活動することに少し引け目を感じていた』とおっしゃられていますが、その分、元患者さんや関係者のお話に耳を傾け、その思いに共感し、思いに近づきたいと活動されています。
そうしたことは、私たちにも重要なことではないかと思います。骨髄バンクや献血が身近に感じられていない方も、片岡さんのような姿勢で一度考えてみてはいかがでしょうか。『少しでも患者さんのために』そう考える片岡さんのお話に、私はとても共感しました。