前回の記事はこちら
臨床美術士で絵描きのフルイミエコです。臨床美術とは絵を描いたり立体作品を作るアートの活動を、認知症の症状の改善に役立てる目的で開発されたアートセラピーです。制作の後でカウンセリングなどは行わず、創作活動そのものを楽しむところに特徴があります。アートプログラムは誰でも楽しめ、今では子どもの感性教育や社会人のメンタルヘルスケアなど多方面で活用されています。美術やコミュニケーションなどのトレーニングを積んだ臨床美術士が寄り添い制作に導きます。
私は2006年から臨床美術士として京都を中心に活動し、今も京都府立医科大学神経内科で外来の認知症の方と介護家族に対して月2回の臨床美術講座を実施しています。今日はその講座でのエピソードをご紹介します。Aさんは80歳の女性でアルツハイマー型認知症です。もの忘れが増えて自信を失い、自宅にこもりがちでした。娘さんの勧めで講座に通い始めました。絵は割と得意だとのことで抵抗なくスムーズに始めることができました。
臨床美術の作品作りは1回で1作品。毎回様々なテーマと画材を用意します。共通しているのは表現の前に、しっかり感じるということ。そして感じたことを作品として表していきます。テーマは野菜や果物のように手で触れたり香りを嗅いだりして観察することのできるものもあれば、香りや音楽のように眼には見えないものを感じながら描くこともあります。
Aさんはナスやりんごのように対象が目の前にあって描く絵が得意でした。よく観察して丁寧に進め、仕上がりにもいつも納得の様子。講座に通うことにも慣れてきました。しかし「音楽を聴いた印象を描く」など見えないものを描くテーマの時にはどうも不安があったようです。始まってからしばらくすると「分かりません」「先生やってください」と私たちに声をかけてきました。「Aさんが使いたいと感じる色で描いてみてくださいね。感じたままに描いた絵に間違いないてないのですよ。」と励まし、なんとか完成されていました。
そんなAさんに転機がきました。ある日の講座のテーマは桜の大木。描き始めには写真の資料を観ますが、描く時には写生ではなく、それぞれが自分の思いのままに桜の木を描くというアートプログラムです。Aさんに何も見ないで描くことを伝えると「できません」と真っ先にいつもの言葉が。それでも臨床美術士に勧められてゆっくりと筆を運び、大きく太く伸びた木に満開の花を咲かせました。そしてその桜の作品をとても気に入ったようでした。鑑賞会では他の参加者にも沢山褒めてもらい、恥ずかしそうにしながらも満足の笑顔を見せてくれました。
その頃からAさんの制作に向かう様子が少しずつ変化しました。もしかしたら見る対象が目の前に無くても、描ける自信がついたのかもしれません。やはり口癖のように「分かりません」と一度は言われますが、線が力強く色の数が増え、抽象表現の場合でも自分なりに工夫して描くようになりました。するとそれまで得意だった野菜などの表現にも、新しく変化が出てきました。かぼちゃを描いた時のことです。それまでの写生的な表現からは離れ、大胆で堂々とした形のかぼちゃを描きました。まだ何か物足りないと臨床美術士に話すAさん。一緒に作品を見ながら光を明るい色で描き加えることを決めて、納得のかぼちゃを描ききりました。
「今日もたくさん頭を使いました。」と笑顔で返すAさん。そんなAさんの変化を娘さんも強く感じていました。講座へ通うようになってから生き生きとおしゃれをして講座に参加し、生活全体も前向きになり前よりも明るくなったとのことです。ある日ご自宅でケーキの箱を開けた瞬間に、Aさんはとても大きな歓声をあげて喜ばれたそうです。こんなに喜んでくれるのなら毎日ケーキを買おうかとご家族が思うぐらいだったと。娘さんは自信をなくしていたAさんが自分の感情を素直に表現する様子に驚き、臨床美術の講座で野菜や果物を五感で感じたり、鑑賞会でみんなの絵をみることで、Aさんが「感じる」ことにおいて以前よりも豊かになり、ありのままで受け入れてくれる雰囲気にも安心していると思うと話してくれました。
認知症になるとそれまでできていた生活のいろいろなことができなくなっていきます。本人もご家族もそのことに目が向いてしまい不安が募りがちです。しかし認知症になっても「今」を感じることはできるのです。臨床美術では今まさに眼の前にあるもの、眼の前にある画面に集中して感じながら描くことを促していきます。やはり講座の最中にも時々は忘れてしまうこともありますが、目の前に野菜や画面があることで比較的「今」に戻ってくることが容易なのです。
そして美術の素晴らしいところは、その感じた「今」が作品という凝縮した形になって残ることです。講座では家族は少し離れたところで制作しているのですが、Aさんが描かれた作品を見て、ご家族もその瑞々しい表現に心から感心されていました。そして家庭での出来事にも「感じる」ことの深まりを発見し、これは臨床美術に参加するようになってからの変化だと認めて私たちに伝えてくれたのでした。
Aさんの例は臨床美術の講座が、認知症の方の自信回復に役立った一つの例でしょう。臨床美術を一定の期間を受け続けることで認知症の症状の進行がゆっくりになったという臨床データもあります。一方で測定できる数値に出ていなくても、介護家族の実感としては患者さんの笑顔が増えたり、感情が穏やかになってきて言葉数が増えるなど、BPSDが改善されて良い方向に変わったという感想もいただきます。臨床美術についてはいろいろな角度から語ることができますので、これからも具体的な事例を交えなから、その魅力を皆さんにご紹介していきたいと思います。
■著者
フルイミエコ
画家、アート&ヘルスケア臨床美術アトリエ苗 主宰
京都<臨床美術>をすすめるネットワーク代表
日本臨床美術協会認定臨床美術士2級
※「臨床美術)及び「臨床美術士」は(株」芸術造形研究所の日本における登録商標です。
編集担当からのメッセージ
まずは体験してみませんか?
臨床美術と聞いて、「やってみたい」と即答できる方は少ないでしょう。何か難しそうに感じるから。
でも「自分を楽しむ」というフルイさんのメッセージを聞いて、絵を描くのが大の苦手な僕も「とりあえずやっていよう」という気になりました。考えるのをいったんやめて、「感じてみる」そこから始まるものがあるような気がします。