臨床美術士で絵描きのフルイミエコです。臨床美術とは絵を描いたり立体作品を作るアートの活動を、認知症の症状の改善に役立てる目的で開発されたアートセラピーです。
私は今までに京都府立医科大学神経内科の講座や老人ホームなどで、臨床美術の講座を13年続けて様々な方と作品作りを行ってきました。私はその経験から、認知症の方が臨床美術を続けることで、何らかの良い変化が得られると手応えを感じています。もちろん個別に差はあって、お薬のように効果が一定に得られるものではありません。過度な期待は禁物です。しかし多くの前向きな経験が生まれているので、認知症と介護家族の皆さんに、ぜひ一度体験してもらいたいと思っています。
臨床美術の何がどのように作用して認知症の改善に役立つのでしょう。そこには様々な要素が重なり合っています。なかなか一言では説明が難しいのですが、ここでは具体的なエピソードと共に、少しずつお伝えできればと思います。しかし今日は臨床美術を理解していただく上で大切なことなので、少し抽象的な話しになってしまいますが「右脳モードで描く」ことについてご説明します。臨床美術の作品制作には、脳の活性化を促す仕組みを意識して盛り込んでいます。それが右脳モードで描くことです。
絵を描く時、例えば「太陽」や「チューリップの花」や「りんご」を描きましょうと言われたら、皆さんの頭には何か思い浮かぶ絵はあるでしょうか?どれもとてもシンプルな形が、とりあえず浮かんでくるのではないでしょうか。
言葉を聞いた時に頭に浮かぶ、単純化された形(=絵)は、シンボルです。マークとも言います。私たちは生育過程でいろいろなものに触れて、脳の中に世界の情報を蓄積していきます。いつかそれらの情報から、ものを象徴的に差し示す形を生み出して実際に描く力が身につきます。生まれたばかりの赤ん坊にはシンボルは描けません。でも就学前くらいの年齢から、ものの印象の象徴化ができるようになり、シンボルが描けるようになるのです。シンボルの特徴は誰が描いても似ていることです。意味が伝わりやすい絵です。実は現在の私たちの生活環境では、シンボルは暮らしのあちこちで生かされています。信号の歩け、止まれのマーク。トイレのマーク。階段のマーク。WiFiのアンテナマーク…などです。シンボルは街の中で暮らしやすさ、分かりやすさに貢献しています。
ところがシンボルは、絵であるには間違いないのですが、美術的な視点で見ると豊かな表現だとは言えません。「誰が描いても似ている」「分かりやすい」というシンボルの特徴は、いわゆる没個性なのです。シンボルはデザインの領域でこそ役には立ちますが、美術表現としては内容の乏しいものと言わざるを得ません。でも私たちは絵を描く場面でも、すぐにシンボルを描いてしまいがちです。頭にパッと閃いた形を描くことで、描けたという安心感も感じやすいのだと思います。
シンボルを描く時に脳はどのように動いているかというと、言葉を話す時と同じような動きをしているそうです。シンボルも言葉と同じように記号のひとつだからです。私たちが言葉を話す時やシンボルを描いている時は「左脳モード」が動いています。左脳モードは論理的な思考に強い脳の状態で、私たちの日頃の生活で大いに活躍しています。ところが認知症の改善のために脳を活性化したい場合、やはり普段と違う脳の使い方をするほうが、脳にとっては刺激になると容易に想像できますね。するとシンボルの絵を描いていても、普段使っている左脳モードの状態で描くわけですから、脳にとっては何も驚きがありません。期待するような脳への刺激にはならないわけです。
ですから脳のリハビリテーションという目的のためには「右脳モード」に切り替えて絵を描くことを勧める必要があります。右脳モードは感覚的に物事を捉え、空間や色彩の認識にも強く、芸術活動に関わりが深い働きをします。芸術家たちは右脳モードで創作をしています。私たちも普段から色や空間を感じて生活していますが、あまり目立ってそのことを意識することは少ないので右脳モードは後ろに引っ込みがちだそうです。でも普段あまり使っていないだけに、右脳モードは脳活性に役立ちそうです。よって臨床美術では脳の動きを左脳モードから右脳モードへ切り替えて描くことを重視しています。そしてそれこそが本来の美術表現への入り口でもあり、思う存分に個性を発揮して自己表現を楽しめる道なのです。
脳に右脳と左脳があることは誰でも知っているでしょう。もともとこの内容は1981年にノーベル医学賞をとった研究でした。当時は二つの脳は全く別々の役割があると思われていたそうですが、今日は更に研究が進み、左右の脳はお互いに連携しながら、いろいろな働きをしていることが分かってきています。しかし私たちが物事を認識していく時に論理的な思考優位で認識するか、感覚的なものが優位で認識するか、二つの異なるルートがあることは現在も認められているようです。現代では言葉を話す時、絵を描いている時、それぞれ脳のどこが動いているのかをより詳しく調べる研究が進んでいます。ですからここで紹介した「右脳モード」「左脳モード」は便宜上の呼称であり、直接的な脳の場所を示しているのではないことを読者の皆さんは合わせて理解しておいてください。
このように話しをすると「じゃあ、私も右脳モードを使って描かなければ!」と、反対に力が入ってしまうかもしれません。しかし私たちは脳の動きを自分で意識して動かすなんてことは不可能ですよね。「よし。今から右脳モードを使うぞ!」などはできません。ではどうすれば右脳モードに切り替えていくことができるでしょう。それには既に紹介した通り、しっかり感じて描くことなのです。描こうとする対象をよく観察する。テーマについて思い浮かべたり思考を巡らす。五感を通じて感じる。感じることによって右脳モードが動き始めます。そして夢中になって創作に没頭する時間を過ごせれば、その時間は紛れもなく右脳モードだったと言えます。時間が経つのを忘れるほど集中するのは、右脳モードの特徴なのです。次回も引き続きお話していきます。
フルイミエコ
画家、アート&ヘルスケア臨床美術アトリエ苗 主宰
京都<臨床美術>をすすめるネットワーク代表
日本臨床美術協会認定臨床美術士2級
※「臨床美術)及び「臨床美術士」は(株」芸術造形研究所の日本における登録商標です。