臨床美術士で絵描きのフルイミエコです。臨床美術とは絵を描いたり立体作品を作るアートの活動を、認知症の症状の改善に役立てる目的で開発されたアートセラピーです。
前回は五感を通じて感じることで右脳モードになり、右脳モードで描くことが脳活性につながるという、臨床美術の理論について紹介しました。アートの良さってなんだろうと考えると、やっぱり個性や自分らしさですよね。正確に形を描くなどの一面的な価値ではなくて、多様な価値があってそれぞれに違うことがアートの大きな魅力です。シンボルのような没個性の絵から離れて、色や線や形を自由に使って楽しむ世界へ飛び出すことは、実はアート本来の姿です。今日はアートが個性の発揮のステージとなり、のびのびと表現できるようになった子どもの経験をご紹介します。
Yちゃんは療育教室を通じて私が運営するアトリエに通うようになりました。お母さんはYちゃんのことで心配がありました。人に対して少し緊張が高く場面緘黙症の傾向があることや、言語の発達の遅れなどです。臨床美術は子どもが感じたままに表現し、上手い下手にとらわれず制作を楽しむ過程を重視しています。最初の体験会ではオイルパステルを使い、画面を見て絵と対話するように、感じるままに心地よく線を描き色を塗っていきました。Yちゃんは描いている時に一度も急かされなかったことや、線や色を褒められたことが嬉しかったのではないかと思います。体験会が終わる頃には緊張はすっかり無くなっていた様子で、このアトリエは大丈夫とばかりに私にハグをしてくれました。
Yちゃんは月に2回アトリエに通うようになりました。体力がなくて途中で「疲れた」と言うこともありました。でも最後までやり遂げたい気持ちも強くて、少し休んでは自分から再開して再び描いていきました。アトリエへ通ううちにだんだんと大胆に表現できるようになっていきました。印象的だったYちゃんの作品を二つ紹介します。
これはブロッコリーを描いた作品です。臨床美術では制作の前に対象を観る、触る、香りを嗅ぐ、音を聞く、食べるなど、五感を通じて感じ取ることによって表現したい気持ちを高めます。子どもは自分が食べている食材でも、もとの丸ごとの姿を見たことが無い場合も多いものです。ブロッコリーを描く時は、最初に小さな茎ごとに取り分けてどんどん分解して観察してみました。Yちゃんはその様子をとても面白く感じている様子でした。作品には三つに分かれたブロッコリーが描かれ、曲がった葉や花蕾のデコボコした印象など、Yちゃんがその日にブロッコリーに発見したことがちゃんと表現されていました。仲の良い家族のように、とても可愛いブロッコリーですね。アトリエに通うようになってから「あれは何でできているの?」とお母さんに尋ねることも増えたそうです。この知的欲求の高まりの背景には、アトリエでの経験があるとお母さんは感じたそうです。
雨の印象をガラス絵の手法で描きました。最初に雨が降る時どんなだろうと話題にします。子ども達からは暗い、暑い、ジメジメしている、ムンとしているなど、いろいろな言葉が飛び交います。そして朝に降る雨か、昼間の雨かなど、自分の描こうとする雨の印象の色を選びます。Yちゃんは赤とオレンジの絵の具を透明板の上で直接塗り広げました。最初ゆっくりと始め、画面の変化に反応しながら割り箸での線描はかなり大胆に描きました。最後にもう少し色を入れたいかと尋ねると、黄色とオレンジと明確に答えました。強くて激しく降る雨のような作品が完成しました。この絵が満足のいくものだったことはYちゃんの表情が伝えてくれていました。Yちゃんは当初は30分もすると集中が切れたこともありましたが、この頃には90分でも集中できるようになっていました。
アトリエのクライマックスは観賞会です。観賞会は毎回の制作の後に必ず行い、「上手い」「下手」という言葉をなるべく使わずに作品を具体的に褒めていきます。Yちゃんはくたびれていても鑑賞会になると必ず顔を上げてくれました。私は子ども達の作品をホワイトボードにずらりと貼ってひとつずつ紹介します。子ども達も手を挙げて発言します。アトリエに皆の声が響いて一段と賑やかな時間です。Yちゃんは自分の作品が褒められると、照れ臭そうに笑顔を見せてくれました。そして何度か観賞会を経験するうちに、自分から手を挙げて他のこどもの作品を褒めてくれるようになりました。みんなの前で当てられて話す事が楽しくなってきたようです。いつの間にかYちゃんは一番最初に手を挙げて、ほぼ全員の作品にコメントをするようになりました。何を話すか決めていなくても手を挙げて、当てられてから考えていることもありました。もうYちゃんが緊張している様子などは全く無く、通い始めた最初のころとは全く違います。そのことをお母さんに伝えると、とても驚いて喜んでくれました。
自分がやりたいと感じるままに作品を作り、のびのびと個性を伸ばしていったYちゃん。臨床美術で表現することで自信をつける事ができたようです。子ども達は鑑賞会で作品を褒められることで自分が受け入れられたと感じます。表現の過程で悩むことがあってこそ、出来上がった時の達成感や喜びも大きいものです。一方で子どもは隣で描いている他者の様子もなんとなく肌で感じ、同じように苦労をしている他者へと自然に心を通わせているようにも思います。最後に作品を見てお互いの違いを意識し、ちゃんと言葉で伝えてお互いを認め合う。そんな経験を繰り返す中で、自分と他者への受容の力も育っていくのだろうと私は考えます。そして私が面白いなと思うのは、表現を通じての個性の発揚や自己肯定感の高まりは、何も子どもだけのことではなく全世代に共通の喜びとして、常に可能性が開かれているということです。次回以降もエピソードを紹介していきます。
フルイミエコ
画家、アート&ヘルスケア臨床美術アトリエ苗 主宰
京都<臨床美術>をすすめるネットワーク代表
日本臨床美術協会認定臨床美術士2級
※「臨床美術」及び「臨床美術士」は(株)芸術造形研究所の日本における登録商標です。