障がいの有無に関係なく、誰もが参加可能な陸上教室やレクリエーション活動を行う「NPO法人シオヤレクリエーションクラブ」代表の塩家吹雪(しおや・ふぶき)さん。1人の視覚障がい選手との出会いがきっかけで伴走をすることになり、そこから人生が大きく変わり始めました。
塩家さんのターニングポイントは何だったのか?
ロンドンパラリンピック日本代表コーチとしてイギリスで見た忘れられない風景、そして伴走オールスターズを結成して出場した思い出の写真など、22年間のパラ陸上に携わる活動を振り返りながら、その想いを語っていただきました。
きっかけは1人の視覚障がい選手との出会いから
ーーさっそくですがNPO法人シオヤレクリエーションクラブについて、どのような活動をしているのか教えていただけますか?
塩家)障がいの有無に関係なく一緒にトレーニングやレクリエーションをすることで、共生社会の実現を目指している団体になります。現在は会員が160名ほどで、半数は障がいのある方たちですね。
ーー障がいの有無に関係なく一緒に活動するというのは、かなり珍しいクラブですね。
塩家)22年前に当時はどこにでもあるような陸上チームの代表をしていて、周りの人に一緒に走ろうよと声をかけていました。その中でたまたま声をかけた1人が進行性の視覚障がいのある方でした。
その選手に話を聞いてみると、半年後のシドニーパラリンピックで100m走に出場することが決まっていて。でも練習環境が整っておらず、しかも年間に4つほどしか障がい者の出場できる大会がなかったんですよ。パラリンピックのような国際大会でメダルを狙うのに、それだけの調整で挑むなんてありえないじゃないですか。
ーーたしかに、その状況だと練習量も大会経験も不足してしまいそうです。
塩家)だから、当時僕が代表をしていたチームで一緒にトレーニングしたり、「一般の大会に働きかけて障がいのある選手も出場できるようにするから、パラリンピックに出場予定のほかの選手も誘ってみたら?」と言って仲間も集めてもらいました。その後、いろいろな大会に掛け合いシドニーパラリンピック前に国内大会に出場できる機会をつくった結果、シドニーパラリンピックの男子400mリレーでは銀メダルを獲得してくれたんですよね。
ーー 一緒にトレーニングしていた障がいのある選手が、パラリンピックで1つの結果を残してくれたのですね。
塩家)そこから噂が広がって、障がいのある選手が全国から集まってくるようになりました。2004年のアテネパラリンピックのときはうちのチームから伴走者も含めて7人が出場して、ある意味でパラリンピック日本代表養成チームみたいになっていましたね(笑)
考えるより行動が先。それが自分らしさです
ーーそこからどのようにして、子どもたちへ関わるようになっていったのですか?
塩家)2009年からパラリンピック・ナショナルチームのコーチをしており、2012年にロンドンパラリンピックに帯同しました。スタジアム近くの公園で、義足だったり知的障がいや視覚障がいの子どもたちが、障がいに関係なく楽しそうに遊んでいる姿を目撃して、自分が将来見たいのはこういう風景だと思ったんです。
そのときに、「間違っていたかもしれない」と思いました。障がいのある選手を指導することが間違っていたのではないですよ。いきなり日本代表クラスのトップ選手から指導を始めたことに疑問を感じ始めて、日本に帰ってからは子どもたちの指導をしたいと思うようになりました。
ーー子どもたちに関わるきっかけが、ロンドンパラリンピックの時に見たその風景だったのですね。
塩家)でも、当時は障がいのある子どもたちへの繋がりもなくて、どうしようかと模索していました。その頃、僕はパルシステム(生協の宅配)の職員として働いていたのですが、偶然にも同僚が営業で伺った家に視覚障がいの子どもがいたんですね。しかも、そのお母さんは自分の子どもに“かけっこ”をさせてあげたいと思っていたんです。
その同僚は僕の想いを知っていたので、僕に「視覚障がいの子どもの指導はできますか?」とすぐに電話をくれて。もう即答しましたね。そこから障がいのある子どもたちへの指導が始まったわけなんです。
ーー同僚の方も、きっと塩家さんの夢を応援されていたんでしょうね。
塩家)最初はその子1人だけでしたが、そこからいろいろな繋がりができました。当時6人くらいの視覚障がいのある子どもが集まったので、この子たちと一緒に一般の大会で走りたいなと思ったんです。これまで私自身に実績がありましたので江東区の大会で許可はすぐに下りたのですが、伴走メンバーをどうしようかと悩みました。僕1人だと同じレースで子どもたち複数人のサポートはできないので。
いろいろ考えた結果、せっかくなら伴走オールスターズをつくろうと思って伴走仲間に声をかけました。その時に撮った全盲の子どもたちと4人の伴走者の思い出の写真があるんですけど、見てもらっていいですか。実はこの時に伴走したのが世界を経験した4人で、アテネパラリンピックで伴走した2人とロンドンパラリンピックで伴走した2人なんです。今でも僕の大好きな写真です!
ーー障がいのある子も一緒に走るというのは、おそらく日本初ですよね。かなりの反響があったと思うのですがいかがでしたか?
塩家)大会に出場していたほかの子どもたちや保護者の方も、1つの大会の中で障がいのある子とない子が一緒になって走るこのような風景を、今まで見たことがないんですよね。だから、応援もかなり盛り上がりましたね。
そうしているうちに、健常者の子どもからも入会したいと声をかけていただく機会が増えてきました。最初に、うちは障がいのある子どももいるので一緒に練習することを伝えるのですが、「障がいのある子どもたちを指導されていて、子どもたちの個性を見ていると思いますので、うちの子もそういう環境で指導してほしい」と、どんどん入会する子どもが増えてきました。
ーーその活動が大きくなってNPO法人を立ち上げるようになったのですね。働かれていた勤務先はどうされたのですか?
塩家)仕事が別にあって指導は趣味でするという選択肢もあったと思います。でも、走ることでパラリンピックやオリンピックを目指している子どもたちもきっといるはずですよね。僕が選手の立場なら、コーチも本気で指導してほしいと思います。
そう考えると、やはり本気で子どもたちと向き合うべきだと思い、すぐに決断して退職をしました。今でもそうなんですけど、考えるより行動が先なのが僕らしさだろうなと思いましたね。
「得意な人が不得意な人を補うこと」で差別や偏見はなくなる
ーー以前に東京の夢の島で練習を見学させて頂いた際に、塩家さんが左半身麻痺の子どもへ「もっと左腕をちゃんと振らないと!」と熱心に指導していた関わり方がとても印象に残っています。
塩家)覚えてくださっていてありがとうとうございます。障がいのある子どもへの運動指導で多く見られるのは、「麻痺している方は動かさない」という指導方法です。でも人間は身体を動かさないとその部位がどんどん衰退していきます。速く走るためには何をしなければならないかと言うと、僕は動かないところを少しでも動かす方がいいと考えているんですよ。
ーー私が指導者だとしたら、何となく気を遣って優しく接してしまったり、動く側の右半身を使って速くなる方法を探しがちなところですが、真っ直ぐに子どもたちと向き合っているところがこのクラブの特徴的なところと思いました。
塩家)うちのクラブに来てくれる子どもたちは、みんな速く走れるようになりたくて来ています。僕は教えている子どもたちを障がい者としてではなく、どんな子どもでも1人のアスリートとして見ています。
だから、麻痺があっても視覚障がいがあっても足が不自由で車椅子に乗っていても、僕はそこを重要視していません。速く走って誰よりも先にゴールに到達したいのなら、そのために何をしなければいけないかの視点でしか見ていないんです。
ーー子どもたちの反応を見ていても、障がいを言い訳にしている様子がないように見えました。うまく走れなかったら「悔しい」という表情が選手本人から溢れていましたね。
塩家)足の速い子が苦手な子を補っていくような指導も大切にしています。特に足の速い子は1番になりたいから、リレーも最初の頃は「○○と一緒は嫌だ」などと言います。
そんなとき僕は、「足が速い子が苦手な子の分もタイムを稼げていないから勝てないんだろう。足の速い子がちゃんと走ってないんだよ。得意な子がもっとタイムを出せよ」と伝えますからね。
勝ったり負けたりすることで子どもたちも負ける大切さも分かってきたり、得意な人が不得意な人を補うことを学んで、偏見や差別がなくなるんですよ。
ーー子どもたちの保護者のみなさんは、どのように感じられているのでしょうか?
塩家)そんな僕と子どもたちのやりとりを見ている保護者も、僕がどっち寄りの立場でもないとわかってくるじゃないですか。そうすると障がいのある子の保護者とない子の保護者も、自然とコミュニケーションが増えて親同士で仲良くなりますよね。この親同士の関係も、ほかのクラブでは滅多にみられない光景だと思います。
特別な指導法はありません。障がいのある子もない子も同じように指導します
ーー塩家さんのイメージされている『共生社会』とはどのようなものですか?
塩家)本来の『共生社会』というものは、今うちのクラブの子どもたちが体現していることだと思うんですよね。少し極論になるかもしれませんが、点字ブロックとかエレベーターなども、そこにいる人たちが手伝ってあげれば本来は必要ないんじゃないかと僕は思います。
例えば海外だと、女性が重たいスーツケースを持って階段を降りていると、周りで気づいた人がパッと手伝って下まで持って降りるわけです。でも日本ではそんな光景はほとんど見られません。みんな知らん振りです。
ーーその傾向は確かにあると思います。
塩家)障がいのある子と一度も関わらずに大人になっているから、関わり方がわからないですよね。僕が子どもの頃は、今ほど障がい者に対する偏見や差別はなかったと思うんですよ。学校を支援級や支援学校で隔ててしまった結果が、今の日本の助け合えない社会をつくっている一因なのではないかと思います。
隔てる余計な空間をつくらずに、同じ場所で同じことをする。そうすることでお互いに認め合える。分ける必要はないと思います。うちのクラブに関わる人たちも、子どもたちの変化を見て同じことを言っていますからね。
ーー子どもだけでなく親御さんにも影響を与えているシオヤレクリエーションクラブですが、何か独自の指導方やノウハウみたいなものはあるのですか?
塩家)よく聞かれますけど、ないですね!どんな子どもたちに対しても全く一緒ですよ。例えば、メガネをかけている子とかけていない子で速く走るための指導法を変えませんよね。それと一緒ですね。
もちろん子どもたちの反応を見ながら「もう少しこういう説明の方がわかりやすいかな」と修正することはありますよ。でも、障がいがあるから別の指導をするという考えはないですね。
夢は47都道府県への全国展開
ーーこれだけの変化や実績を出しているわけですから、ほかのクラブから問い合わせもありそうですね。
塩家)ほかのクラブの代表者ともよく話をするのですが、「指導の仕方がわからない」とか「塩家さんだからできるんですよ」とか「何か事故や怪我があったらどうしよう」と言われます。でも僕は神様でもないですから僕しかできないことなんてあるわけないですし、障がい者スポーツに携わって22年経ちますが、本当に何も事故や大怪我なんて起こっていないんですよ。
僕たちのお客さんの大半は子どもです。今後、子どもの人数も減ってくる中で、少ない子どもたちをクラブチームは取り合うことになります。クラブ運営で生活しているスタッフのことを考えても、障がいのある子もない子も一緒に活動できるチームをつくった方が断然よいはずと僕は思いますね。
ーー最後に塩家さんの今後の展望を教えていただけますか?
塩家)僕は死ぬまでに、フランチャイズで全国展開して、47都道府県にうちみたいなクラブをつくっていきたいと思っています。以前に松岡修造さんが取材にこられた際に、「死ぬまでじゃなく、今からやっていきましょう!」と熱いメッセージをいただきました。それを成し遂げてから僕はこの世を去りたいと思います!
ーー最初から最後まで想い溢れるお話をありがとうございました!シオヤレクリエーションクラブはHPからお問い合わせいただくと練習見学もできるそうです。
ぜひご興味ある方は、特別なことをしていないシオヤレクリエーションクラブの指導法をご自身の目で確認してみてください!
塩家さんが代表のシオヤレクリエーションクラブHPはこちらから