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努力は障がいを超え国境を越える 〜デフフットサルのレジェンドが語るブラジル留学から代表引退まで〜

デフリンピック04

2023年11月に、ブラジルで開催されるデフフットサルW杯で優勝を目指すデフフットサル男子日本代表チーム。その出場権を巡って戦った2023年4月の大会で、1人のレジェンド選手が引退を決意しました。

その選手とは、デフサッカー/デフフットサル男子日本代表選手として25年の間チームを牽引し、45歳で現役を引退された船越弘幸さんです。

高校時代に単身でブラジルに渡りプロサッカー選手を目指してから、ブラジル開催のデフフットサルW杯の直前に引退を決意するまで、一言では表すことのできないたくさんのドラマがありました。どのような想いでブラジルに渡り、日本代表として活動し続け、そして引退の決断をされたのか?ぜひこの後の記事をご覧ください。

口話ができるようになるために。お母さんと発音練習する毎日

ーーデフサッカーやデフフットサルでの長年の現役活動、本当におつかれさまでした。まずは、サッカーやフットサルとの出会いからお話を伺わせてください。

船越)幼稚園から小学生4年生くらいまでは、スポーツをする時間があまりありませんでした。幼稚園はろう学校、今でいうところの聴覚支援学校、小学校は難聴学級のある遠方の小学校に通っていたのですが、帰宅してからも遊びに行かせてもらえず、ずっとお母さんと夜まで発音の練習をしていたんですよ。その頃はまったく遊ばせてくれないし、テレビや漫画も見た記憶がありません。だから、サッカーやフットサルにもまったく関わりがありませんでしたね。

ーー今こうしてインタビューさせて頂いて驚いているのですが、手話通訳をほとんど介さずに口話でコミュニケーションをとられていますね。

船越)聴覚障がいのある方は、音が聞こえないので自分の声がわからない場合が多いんです。どういう発音をしているのか自分でわからないから、発音を間違えたことにも気づきにくくて。そうすると、自分では話せると思って話しているけど、実際には正しい発音ができてなくて伝わらないことが結構あります。だから、聴覚障がいのある多くの場合は口話ではなく手話を使います。

ただ、僕の場合は母から幼少期の頃に「健常者の多い社会の中では手話とか指文字は苦労する」とずっと言われ続けていて。当時は遊ばせてくれない母のことめちゃくちゃ嫌いと思ってたのですが、今ではその気持ちがとてもわかりますね。

ーーそれはお母さんの愛情だったわけですね。その後、サッカーやフットサルにはどのようにして出会ったのですか?

船越)小学校5年生からは、健常者の子どもたちが通う地元の小学校に行くようになりました。そこで、クラスの子に一緒にサッカーしようと誘われて、小学校のサッカー部に入ったのがサッカーとの出会いでした。

ーー耳が聞こえない中で健常者の子どもたちと一緒にプレイしていたと思うのですが、困ったことなどはなかったのでしょうか?

船越)最初はまったくルールがわからなくて。当時人気のあったキャプテン翼を見てプレイしていたので、サッカーはドリブルをしてオーバーヘッドをするスポーツだと思ってました(笑)

チームのみんなが「パスをくれ」と言っても、僕は耳が聞こえていないので気づいてなくて。とにかくボールしか見てなくて、ドリブルして相手に取られて、また取り返しての繰り返しでしたね。でも、友達とワイワイと触れ合えることが本当に楽しくて。サッカーが楽しいというよりも、友達とのそんな雰囲気が大好きでした!

ーーその当時からプロのサッカー選手も目指されたりとか?

船越)僕が高校に入った年が1993年なんですけど、ちょうどその年にJリーグが開幕したんですよ。それまでは日本にはプロサッカーがなかったので、中学生の時はプロを目指す気持ちもなかったですし、その自信もなかったです。

そのような中、中学時代のクラブチームで仲の良い先輩が進学した高校に進んだのですが、その高校の当時のサッカー部の雰囲気が僕にはまったく合わなくて…(苦笑)。

水を飲んだらダメ、日陰にいたらダメ、1年生の練習が基本は球拾い、名前を覚えてもらうために練習着の正面に大きく「船越」という名前を書かないといけないとかで。正直とんでもないところに入ってしまったと思っていました。

ーー僕も同じ世代なので、当時の部活の雰囲気がすごくわかります!

船越)でも、その当時に通っていた整骨院の先生が、ブラジルから帰化した元サッカー日本代表のラモス瑠偉選手の専属トレーナーだったんです。その先生に、今の部活の状況や自分の気持ちを伝えて今後のことを相談したら、ブラジル留学を紹介してあげるという話になったんですよ!

船越さんとお母様幼少期の思い出の写真。お母さんとの2ショット

プロ選手を目指し単身ブラジルへ

ーー偶然とは言えものすごく運命的な出会いですね!当時高校生ということでしたが、休学などして行かれたのですか?

船越)夏休みを利用してブラジルに行ったのですが、カルチャーショックを受けました。日本は上下関係が厳しくて、先生の言うことは正しくて当然みたいな感じでしたが、ブラジルでは、選手が監督に反対意見を言っても「アミーゴ(友達)」みたいな感じで。

もちろんサッカーをしている時は相手や仲間ともぶつかり合うことがあるんですけど、サッカーが終わったらみんな「アミーゴ」な雰囲気なんですね。

ーーたしかにサッカーのブラジル代表を観ていても、そのカルチャーを感じます。

船越)サッカーを始めた当初のことを思い出して、「友達とコミュニケーションを取ることが好きだからサッカーを続けてこれたんだ」という気持ちが、一気にブラジルで弾けました!そのときに、自分はこの環境でサッカーをした方が上手くなれると確信したんです。

ーーサッカーを始めた当初のお話を伺った先に、そんな雰囲気が好きで続けていたとおっしゃってましたね。それに成長しやすい雰囲気というのは、人それぞれありますよね。

船越)しかも、ブラジルで僕のプレイを見ていた監督が、サンパウロFCのスカウト担当をやっておられた方で、過去に元ブラジル代表のカフー選手を発掘してサンパウロFCに連れてきた監督だったんですよ。そんな監督から、「お前はヘタクソだけどチームで1番スタミナあるし、真面目だし、カフーにするから今からチームに来い」と声をかけてもらえて。これはオファーが来たのかなと勝手に勘違いして(笑)

日本に戻ってすぐに高校に行って、「ブラジルでプロサッカー選手になるので高校を辞めます」と伝えました。母は就職のことを考えて、せめて大学を卒業してからブラジルに行きなさいと反対していたんですけど、最終的には僕の気持ちが変わらなかったので認めてくれましたね。

ーーブラジルでのサッカー生活はいかがでしたか?

船越)1年目は阪神大震災が日本で起きた年で、かなり心配な気持ちで過ごしていました。ただ、2年目にプロチームのサンパウロのサテライト(2部)に入ることができて、そこでトップチームの練習にも参加しながらプレイすることができました。そして、3年目についにトップチームの監督から契約の話がきたんです!

やっとブラジルでプロになれるんだと思って。でも、そのためにはビザの変更や法務庁での手続きなど対応しなければいけないことがありました。僕は代理人をつけておらず、これまでもすべて自分でコミュニケーションをとって対応していたのですが、最後はポルトガル語のコミュニケーションが上手くいかず、トップチームでの契約は無理になってしまいました。

ーー実力でプロ契約まで行き着いたのに、最後は言葉が障壁になってしまったのですね。

船越)残念でしたが、「20歳までにブラジルで結果を出せなければ、日本に戻り公務員を目指す」というのが母との約束でしたので、20歳で帰国してからは定時制の高校に通い、公務員を目指すことにしました。

船越さんブラジル留学高校を中退し、プロサッカー選手になるためブラジルに単身留学していた19歳頃

ーーお話を伺っていて気になったのですが、耳が聞こえない中でどのようにしてポルトガル語でコミュニケーションをとっていたのですか?

船越)口話でコミュニケーションをとっていましたよ。ただ、ポルトガル語がまったくわからないままブラジルに行き、最初の頃は日本から持って行った旅行雑誌に書いてあるポルトガル語を参考にしながら話していたのですが、まったく通じないんです。しかも、ポルトガル語にも方言があり、僕は最初に行った田舎の地域での言葉は正式なポルトガル語とはまた少し違うんですね。

だから、例えば朝最初に会った時にブラジル人が手を挙げて何か挨拶していたら、「これは“おはよう”という意味なんだ」というように、一つ一つ経験しながら覚えていきました。

ーー耳が聞こえる人は相手の話す発音を聞いて言葉を覚えていくと思いますが、船越さんはどのように覚えていったのですか?

船越)相手がポルトガル語を発音する時の口の動きを見て覚えていきました。実はポルトガル語はまだ簡単で英語の方が難しいんですよ。英語はイントネーションがあるじゃないですか。高く発音したり低く発音したり。ポルトガル語は一定なので、口の動きとジェスチャーだけでだいたい理解できました。

言葉がわからなくてもジェスチャーで表現すると、相手も同じジェスチャーをして話してくれるので。最初は7割くらい間違って発音しているのですが、コミュニケーションをとっていく中でわかっていきましたね。

新しい目標「公務員として働きながら世界を目指す」

ーー小学校でサッカーを始めてからブラジル留学まで、健常者のチームでサッカーをされてきたと伺いましたが、デフサッカーとの出会いについても教えていただけますか?

船越)20歳で帰国したあとの成人式で、久しぶりに聴覚支援学校の友達に会ったのですが、その友達がデフサッカーのチームでプレーしていたんです。その友達に誘われたのが、デフサッカーとの出会いですね。

ーー20歳で帰国していなければ、出会っていなかった可能性もあったのですね。最初から興味を持たれたのですか?

船越)これまで健常者の中でプレーをしてきて、ブラジルにも行ってサッカーをやってきたプライドがあったので、最初は「興味ないわ」と断っていました。でも友達が熱心に誘ってくるので、1回だけ遊びで行ってみるかと思って練習に参加したんです。

ーーその練習でデフサッカーの魅力に気づかれたと。

船越)いえ、まったくの真逆でした。最初はめちゃくちゃ下手に見えて、なんで僕がここでプレイしないといけないのかと思いましたし、練習後にチームみんなでレストランで食事をする時も、みんなが手話で会話しているのが恥ずかしくて。

僕は口話でチームの選手たちは手話ということで、コミュニケーションもとれませんでしたね。

ーーそれでも結局、デフサッカーを続けたのはどんな心境の変化があったのですか?

船越)最初に誘われて参加したのが大阪のチームだったのですが、デフサッカーはチーム数が少ないこともあり、地域の代表がいきなり全国大会に出場できるんです。チームから、「全国大会があるから今年だけでも出場してほしい」とお願いされて、一回だけ参加することにしました。

初めて大阪代表チームとして参加した大会で全国3位になることができて、その活躍がきっかけでデフサッカーの日本代表にも選ばれたんですよ。

ーー全国大会だから、日本代表を選考する方も試合を観ていたのですね。

船越)そこで初めてデフサッカーにアジア大会や世界大会があることを知りまして。サッカーではプロになれなかったけど、公務員として仕事をしながらデフサッカーで世界を目指す生き方もありかもしれないと思い、新しい目標ができたんですよね。

そこから本格的にデフサッカーに取り組むようになりました。

FUTUROでプレイする様子東京都リーグの健常者チームでもフットサルをプレイしていました(現在は関西のチーム)

ブラジルW杯を前に引退を決意。本音は…

ーーそのような経緯で、デフサッカー日本代表選手としての活躍がスタートしたのですね。

船越)そうですね。デフサッカーの代表選手として活動しながら、僕は健常者のチームでフットサルもしていたんです。その噂がデフサッカー界に広まっていき、「フットサルをやりたい」という人が増えてきました。

そこで、デフフットサルの日本代表チームもつくろうという雰囲気になり協会に相談した結果、自分たちでデフフットサルの協会を立ち上げることになりました。

ーー協会を立ち上げてからは、どのような想いでデフフットサルに取り組まれていたのでしょうか?やはり「世界を目指す」という気持ちでしょうか?

船越)世界を目指したいという気持ちもありました。でも、その当時に健常者のチームでデフの選手がプレイしているのは僕だけだったんです。

だから、僕が活躍して自ら発信していくことで、デフフットサルやデフサッカーの認知が世間に広まっていくんじゃないか、興味を持ってスポンサーも付いてくれるんじゃないか、選手の環境がより良く変わっていくんじゃないかという気持ちの方が強かったですね。

ーーそんな気持ちで取り組まれていたのですね。おそらくそのような地道な活動が実った結果だと思うのですが、2023年9月23日にマレーシアで開催される大会から、デフサッカー/デフフットサル日本代表選手も、サッカー日本代表選手と同じデザインのユニフォームを着用できるようになると発表がありましたね。

船越)そうなんです!25年ほどかかりましたが、責任感を持って発信してきて本当に良かったと思っています。

フットサル男子日本代表選手として世界との戦いに挑んでいた船越さん(写真後方の左から2人目)

ーーそのような嬉しい報告もありながら、船越さんは4月にイランで開催された「アジア太平洋ろう者フットサル選手権大会」(以下、アジア大会)で引退を決意されました。

船越)アジア大会の中で怪我もして、日本代表としてしっかりと戦えるプレイではなかったので、ここが区切りだなと思い決断しました。

でも、日本代表はこのアジア大会で3位となり、11月に開催されるワールドカップの出場権を獲得しました。実はこの開催地がブラジルなんですよ。

ーー運命の巡り合わせを感じますね。船越さん自身、ブラジルへの強い想いがある中で引退を決意し後輩に託されたのだと思いますが、今はどんなお気持ちですか?

船越)僕がキャリアをスタートしたのがブラジルなので、ブラジルで引退したかったというのは正直あります。選手を引退しても、サポートの形で代表チームの一員としてブラジルに行くのもありだとも考えました。でも、僕はずっと1人のプレイヤーとしてブラジルを目指してきたわけなので、プレイヤー以外で目指すのは違うと思ったんですね。

11月に代表選手たちがブラジルから帰ってきた時に、僕がどんな気持ちになるかですね。今はまだ自分の気持ちがちょっと分からないのが本音です。

ーー本音を聞かせてくださりありがとうございます。最後に、デフサッカーやデフフットサルの後輩へメッセージをお願いします!

船越)ワールドカップに挑む選手たちには、今までやってきたことを継続して、日本代表選手になれなかった選手のことや応援してくれる人のことも胸に抱いて、代表選手として周りから見られていることも意識して、しっかりと戦ってきてほしいなと思います。

もちろん優勝を目指しているのですが、結果がどうなるかは分かりません。それよりも、どういう想いを持って挑むのかが大事なので!

本当は僕がブラジルに行ったら、いろいろなところを案内できるし、通訳もできるんですけどね(笑)

ーー幼少期から現役を引退された最近の出来事まで、詳しくお話を聞かせてくださりありがとうございました!お話を聞く中でいろいろな感情が湧き起こり、まるで1本の映画を観ているようでした。デフフットサル日本代表チームの活躍と、船越さんのこれからの人生のどちらもSports for Socialは応援しております!

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