セカンドキャリア

Jリーガーから車いすバスケ銀メダル 京谷和幸を変えた出会いと、これからの子どもたちへの“きっかけづくり”|第二の挑戦 スポーツ選手のセカンドキャリアに迫る vol.3

京谷和幸

輝やかしい世界で活躍するプロスポーツ選手。想像を絶する努力と数々の挫折を乗り越えて辿り着いたアスリートも、いつの日か最前線の舞台から退き、次の挑戦をするタイミングが訪れます。
Sports for Socialではそんなプロスポーツ選手たちがどのような”第二の挑戦”をしているのか、スポーツ選手として得た経験や力をどのように活かしているのか、その方々の人生に迫ります。

今回は、京谷和幸さん(以下、京谷)にスポットライトを当てます。北海道出身で、当時日本サッカー最高峰リーグである日本リーグの古河電工に所属。その後1993年にJリーグが誕生し、晴れてJリーガーとなった京谷さんですが、事故により車いすでの生活を余儀なくされます。
車いすバスケと出会い、日本代表選手として4度のオリンピック出場、そしてヘッドコーチとして東京パラリンピック銀メダルという輝かしい“2つ目の”キャリアを歩みました。

そんな京谷さんは、株式会社INSPLICTを立ち上げ、さらなる新たな挑戦へと踏み出しています。その壮絶な人生と、未来への期待に迫ります。

アポロプロジェクト
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Jリーガーから車いすバスケ選手へ

ーーサッカーの世界から事故をきっかけに車いすバスケットボールへ。そのときのことを教えてください。

京谷)事故に遭ったのはいまから31年前の11月です。Jリーガーとしてこれからという矢先で、事故直後は将来に対する不安もありましたが、事故後すぐに「入籍しよう」と言ってくれた妻や、家族・仲間の支えでなんとか絶望の淵から這い上がることができました。

京谷和幸さん室蘭大谷高校時代には、1年生から背番号10番を背負い3年連続で全国高校サッカー選手権に出場。

ーー車いすバスケとの出会いはどのようなものだったのですか?

京谷)障がい者手帳を発行しに訪れた浦安市役所の担当の方が車いすの方で、のちに私が所属することになる車いすバスケットボールチーム『千葉ホークス』の選手でした。そんな運命的な出会いから車いすバスケの存在を知りました。

自分としては1日も早く社会復帰することを優先して考えていて、車いすバスケをやりたいとはあまり考えていませんでした。千葉ホークスの練習を初めて観に行った際には、そのスピード感や当たりの激しさ、シュートの正確性から「同じ人間とは思えない。こんなすごいスポーツできるわけがない」と思ってしまいましたね。

ーー最初はそのすごさに衝撃を受けたところからのスタートだったのですね。そこから車いすバスケにのめり込み、日本を代表する選手にまで登り詰めます。

京谷)国体に出る千葉県チームで、たまたま欠員が出て、競技歴ゼロの状態で参加しました。当時の千葉県代表は、日本代表選手も多く所属し、東京都代表との決勝戦はまさに戦場。「ここならもう一度サッカーのときのような輝きを取り戻せるかもしれない」と思えたことが、その後の人生を決めましたね。

京谷和幸さん

車いすバスケと仕事の両立

ーー当時は車いすバスケと並行して、お仕事もされていたのですか?

京谷)退院してすぐにはなかなか仕事がなく、貯金を切り崩しながら生活していました。そこから大手航空会社の子会社に入社することができ、仕事と競技を両立しながらの生活になっていきます。

ーー現役時代を振り返って、印象的なことはどんなことですか?

京谷)初めてパラリンピックに出場した、2000年のシドニーでの光景が忘れられません。どこに向かえばいいかわからなくなっていた自分が車いすバスケに出会い、本気になり、ガムシャラに頑張ってきた先に見つけた一つの感動的な光景です。開会式での入場行進の際の大歓声や、地元オーストラリアとの試合での地鳴りのような歓声を聞くと、「この舞台を誰にも渡したくない」と思ってしまいますよね。

ーーここまで全身全霊をかけ、その後は選手として2012年ロンドンパラリンピックまで打ち込んだ車いすバスケ。サッカー選手としてトップレベルにいったときともまた違うキャリアだったのではないでしょうか。

京谷)そうですね。サッカーのときは「好きなことを一生懸命やっていれば上手くなった」という状態で、人間的にもあまり成長していなかったように思います。事故があって、いろいろな人の支えや助けを感じることができるようになりました。

例えば、サッカーだったら人を認めたり褒めたりせず、まさに“俺様”という考え方でした(笑)。車いすバスケでは自分自身にできないことも多かったので、「まずは人を認めよう」「人の真似をしてみよう」など、そうした想いで取り組めるようになりました。“プロ”としての意識も車いすバスケのときの方が高く、体調管理や振る舞いにも気を遣うことができていました。

ーー現役時代から、引退したあとのキャリアのことは考えていましたか?

京谷)実は、2008年の北京パラリンピック後に引退しようと考えていました。日本選手団の主将も務め、名実ともにパラスポーツ界のトップ選手になれたという想いに満足してしまったのですが、まわりの人たちから「続けられるなら続けた方がいい。お前が続けることが社会貢献、恩返しになる」と言われたこともあり、次のロンドンパラリンピックを最後の挑戦として目指すことにしました。

もう4年頑張る、と決めたときに考えていたのは、「引退したらサッカー界に指導者として戻りたい」ということです。2012年に引退するとして、その後指導者ライセンスを取りに行く時期なども考えて準備しながら、それでも全力で最後の4年間を過ごしていました。

ーー2012年、ロンドンパラリンピック後に車いすバスケを引退され、サッカーの指導者としての新たなキャリアをスタートさせますが、2015年には車いすバスケのコーチも兼任するようになります。

京谷)引退後はサッカーの指導者と決めていましたし、キャリアとしてもその方向で動いていましたのですが、2013年9月に東京オリパラの開催が決定したことが新たな転機となりました。
一度離れてもっと広い世界を見ようという想いもあっての引退だったので、東京オリパラの決定は「また車いすバスケから声がかかるのではないか」とあまりポジティブには捉えられてはおらず、案の定、半年ほどあとに代表のアシスタントコーチとしてお声かけいただいたときにも最初は断らせていただきました。

サッカーと車いすバスケ、両方できるのか?と悩みましたが、信頼できるまわりの方々から、まったく同じように「サッカーと車いすバスケ、両方できるのはお前だけだろう」と言われました。1つにこだわらず、2つやってもいいじゃないかというその言葉は自分の中でとても納得感があり、両立しながらそれぞれの時間はその競技に100%を注ぐことを決めました。

ーー実際に2つの競技の指導者をすることの難しさはなかったですか?

京谷)むしろ、共通していることの方が多かったです。サッカーのライセンスを取りに行ったときにも、“守備”のテーマでは車いすバスケのときに得た感覚をサッカーに置き換えて指導するようにしていました。どちらも“スペース”を扱うスポーツなので、似ていると思いましたし、そうした共通点を活かしながら2つの活動をしていました。

京谷和幸

自分の会社『INSPLICT』を立ち上げ

ーーその後、車いすバスケでは東京パラリンピックでヘッドコーチとして銀メダルを獲得しました。

京谷)東京パラリンピックでの銀メダルは、日本中に盛り上がりを生み、選手たちの環境もすごく大きく変わりました。しかし、そのブームも1年ほどで下火になり、大会に継続してきてくれるお客さんはいるものの、ニュースなどでの話題は減ってしまった印象があります。

ーーパリパラリンピックでは男子車いすバスケ代表は出場を逃してしまうなど、なかなか盛り上がりが作れなかった印象もあります。

京谷)正直、「パラリンピック以外でのパラアスリートの価値ってこんなものか」と思ってしまいましたし、「パラアスリートの価値を高めていかなければ」という思いが強くなってきました。こうした現状を考えたときに、自分だからこそできるパラアスリートも含めたアスリートマネジメントの方法があるのではないかと思い、その想いに賛同してくれたメンバーとともに『株式会社INSPLICT』を立ち上げました。

京谷和幸さん株式会社INSPLICT創業メンバー。京谷さんの想いに共感する経験豊富なメンバーが集いました。

子どもたちのきっかけになりたい|京谷和幸の想い

ーーINSPLICTでは、アスリートのマネジメントだけでなく、『きっかけプロジェクト』という障がいのある子どもたちのチャレンジ事業も行っています。

京谷)この『きっかけプロジェクト』を軌道に乗せるために会社を立ち上げたといっても過言ではないほど、私自身も想いがこもっています。前所属事務所のときにもやっていた事業で、「障がいのある子どもたちに、一歩を踏み出すきっかけを作る」ことを目的に活動しています。

ーー『きっかけプロジェクト』を立ち上げたのには、京谷さんのどのような想いがあったのでしょうか?

京谷)JFAが主催する『夢先生』の講師として、東日本大震災後に東北地方の学校を訪問しました。そこにいた車いすに乗っている女の子が、その当時の思い出を絵にして東京オリンピック・パラリンピックのポスターコンクールに出し、なんと金賞を受賞しました。

私の話がきっかけで、「絵をかいて応募してみよう」と思ってくれたそうで、このような“子どもたちが一歩を踏み出す勇気”を与える経験は、私の人生の中でも大きなできごとの1つです。障がいがあることで、なにかを「やりたい!」という気持ちが生まれにくく、一歩踏み出す勇気を出せない子どもたちにきっかけを与えることで、これから社会に出て日本を創り上げていく一員になる子どもに育てていきたいなと思います。

きっかけプロジェクト

ーー今後の予定を教えてください。

京谷)まだ会社を立ち上げたばかりで、『INSPLICT』としての『きっかけプロジェクト』を開催できていません。来年の3月までには岡山県で開催できるように準備を進めています。
その後は全国展開していきたいですし、肢体不自由の子たちだけでなく発達障がいなどさまざまな障がいのある子どもたちも対象にしていきたいと思っています。

ーー“きっかけ”が必要な子どもたちは多くいますもんね。

京谷)とくに障がいを負ってしまい、病院から退院したあとの子どもたちにアプローチしたいです。すぐになにかスポーツをしたりすることはできず、少し隙間の時間がある子たちにスポーツが1つの“きっかけ”になるようにしていきたいです。

ーー実際に障がいを負ってしまった子たちにとって、“一歩踏み出すきっかけ”は多くの意味で一番必要なものなのかもしれませんね。

京谷)スポーツを“する体験”だけではなく“観る体験”も子どもたちにとっては何かを踏み出すきっかけになるものです。スポーツを1つの軸としながら、それにこだわらずに“きっかけ”を与えることにフォーカスしてやっていきたいと思います。

杉本美香さん
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アスリートとしての経験が活きる“覚悟”と“決断”

ーーこれまでのアスリートとしての経験が、新たなビジネス面でも生きているところはありますか?

京谷)“人との繋がり”が一番大きいかなと思います。選手時代に出会った人々との繋がりは本当に大きな財産になっています。
あとは、“決断のスピード”ですかね。経営者としてはまだまったくの素人な私ですが、会社としての決定は私がしなければなりません。そうした際には、アスリートの経験からか“覚悟”と“決断”は早くできているなと思います。また、指導者としての経験も、従業員とのコミュニケーションに活きています。

ーートップアスリートというだけでなく、トップレベルの指導者という経験もビジネスにおいて活きていて、見ている目線も広くなっているのですね。

京谷)『INSPLICT』は、「あなたのチャレンジに共走します」という理念で、アスリートのチャレンジに対して寄り添って一緒に走っていきます。

アスリート自身が明確なビジョンを持ち、その可能性を最大限に引き出すために、私たちは会社として信念を持ってマネジメントに取り組んでいます。現在、専属でマネジメントをしている杉本美香さんも、そうした点で非常に魅力的で、人生を応援したくなるような方です。アスリートの嬉しい瞬間をともに喜び合いながら、これからも共走していきたいですね。

ーーありがとうございました!

廣瀨智靖
プロスポーツと地域産業をつなぐ最高の恩返し|第二の挑戦 スポーツ選手のセカンドキャリアに迫る vol.2~廣瀨智靖~廣瀨智靖さん(以下、廣瀨)は、幼少期からサッカー選手としてエリート街道を歩み、高校サッカーの名門・前橋育英高校からJリーグ モンテディオ山形に加入しJリーガーに。24歳で徳島ヴォルティスに移籍し、2年後の2015年に26歳の若さで引退しました。 引退後は株式会社トゥモローランドへ入社し、アパレル業界へ。「アパレルのことを基礎から学びたい」と、自身の知名度を活かすことなく努力した廣瀨さんは、トゥモローランドでのスーツの販売、新店舗のマネージャーの経験を経て、現在はマーマレーション株式会社に所属し、オーダースーツブランド「illbe」立ち上げています。 廣瀨さんが経験してきた、“サッカー以外”の場面での努力、そして「自分のやってきたスポーツに恩返ししたい」という想いについて伺います。...
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写真提供:株式会社INSPLICT

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