「自分の弱さに向き合うのは簡単じゃない」
若年性アルツハイマーを発症した母を目の前に恐れと戸惑いを抱え続けていた、現役プロラグビー選手であり『一般社団法人Joynt(ジョイント)』の代表理事である喜連航平さん(以下、喜連)。しかし、8年ぶりの母との再会で見えた希望が、彼の行動を変えました。
家族の病気と向き合いながら、「今度は自らが誰かの支えになりたい」と始めた啓発活動。ラグビー選手として、そして 1人の息子として、彼が伝えたいメッセージとは?
母のアルツハイマー発病と心の葛藤
ーー『一般社団法人Joynt』を立ち上げるきっかけにもなった、お母様がアルツハイマーを発病されたときのお話からお聞きしたいと思います。
喜連)母が若年性アルツハイマーを発病したのは、僕が中学生のときでした。正直なところ、当時はまったく受け入れられなかったんです。思春期で自分自身のことで精一杯だったし、病気の意味すら理解していなかった。
実は、僕が物心がついたときには母方の祖母もアルツハイマーを発病して、その様子を見ていたので僕にとっては怖さしかなかったんですよ。元気だった母が徐々に変わっていくのがすごくショックで。当時は遺伝性ということも知らなかったので「なんでこんなことが自分の家族に起きるんだ?」って、毎日自問していました。
ーーそれは辛い状況ですね。そうした中で、お母様とどのように向き合っていましたか?
喜連)向き合えていなかったです。むしろ、ずっと避けていました。母と一緒にいると、どうしても変わりゆく母の姿が目に入ってしまう。それを見るのが怖かったんです。家族が母を病院に連れて行く姿を見ても、「どうしてそんなことをするんだ?」って思っていました。病院に行くことが病気を進行させるような気がして反発していました。
それから間もなくして母は家で生活することが難しくなり、特別養護老人ホームで介護を受けながらの生活になったのですが、僕は会いに行けませんでした。忘れられている可能性があるからです。「自分のことを忘れているかもしれない」という出来事に直面するくらいなら、優しく接してくれた母の姿を留めておこうと僕は思ってしまったんだと思います。
ラグビーが与えてくれた心の支え
ーーそんな状況の中で、ラグビーを続けていたのですね。ラグビーを始めたきっかけや、ラグビーがどのように喜連さんを支えていたのか教えてください。
喜連)ラグビーは幼稚園のときに出会いました。通っていた幼稚園の園長先生の旦那さんが町にあるラグビースクールのコーチで、その縁で幼稚園にラグビーを教えに来ていたんです。最初はまったく興味がなかったのですが、コーチが手品を見せてくれたんですよね。幼稚園児だから手品に夢中になりますよね。「ラグビー部に入ったらもっと手品を見せてあげる」と言われ、その手品を見たさにラグビーを始めました。
ラグビーをやり始めてとても楽しかったです。ラグビーは1人ではできないスポーツで、サッカーやバスケだと1対1でも勝敗がわかりやすいですよね。でもラグビーは幼少期からチームプレーを求められるんですよ。1つのボールに群がって助け合いながら走り回ることが大好きになりました。一般社団法人の名前のJoyntは造語で、僕の苗字の「喜連」から喜び(Joy)が連鎖し、繋がり続ける(connect)という意味が込められています。
ーーラグビーをプレイすることで感じた想いが、一般社団法人の名前にも繋がっているのですね。お母様が発病された中学時代からは、どんな気持ちでラグビーを続けていたのですか?
喜連)高校で大阪桐蔭高校に進学しラグビー部に入りました。今でこそ強豪校として有名ですが当時はまだそんなことはなく、全国でベスト8にも進んだことのないチームでした。でも3年生のときにキャプテンに就任し、春の全国大会では優勝することができたんです。ラグビーの試合で活躍すると名前が新聞や雑誌に載ったりしますよね。僕は会いに行けなかったのですが会いに行っている家族が母に僕の活躍を話してくれました。
母は昔から僕がラグビーをする姿を応援してくれていたので、そんな母のためにも頑張ろうという気持ちは強かったです。活躍すればいろいろなところから母の耳にも入り、僕のことを覚えたままでいてくれるかもしれないと。もちろん綺麗事だということはわかっていたし、会いに行っていないことがひどいことだともわかっていました。それでも、自分が母のためにいいことをしていると解釈して、自分をなんとか前に進めていました。
ーーラグビーを通じて、自分の気持ちに何とか折り合いをつけていたんですね。その後ラグビーを続けていく中で、何か心境の変化はあったのでしょうか?
喜連)大きな変化があったのは、大学に進学したときです。当時は関東のラグビー強豪校に進む選手が多く、僕は大学卒業後はラグビー選手志望だったので関東へ進学も考えましたが、あえて関西の近畿大学を選びました。理由は単純で、母のそばにいたかったからです。祖母がアルツハイマーで亡くなっていく姿を見ているので、母がいつそうなってもおかしくないという怖さもありました。そんな中で、大学も僕の母のことを理解してくれたこともあり、関西で一生懸命に頑張って絶対にラグビー選手になると決めました。
だけど、いざ近くにいてもなかなか会いに行く勇気が持てなかった。大学でもラグビーに打ち込みましたが、心の中ではずっと母のことが引っかかっていて、「いつか会わなきゃ」という気持ちと「まだ向き合えない」という気持ちが交錯していました。
8年ぶりの再会と新たな気づき
ーーそして、大学時代にいよいよ再会を決意されたんですよね。
喜連)そうですね。大学4年生のとき目指していたラグビー選手になることが決まり、上京する直前に「どうしても会いに行くべきだ」と感じました。このまま関西を離れてしまうと、もう本当に会えなくなるんじゃないかという焦りがあったんです。でも、いざ会いに行こうと思うと、足がすくんでしまって、病院の匂いとか、おばあちゃんのときの記憶とか、いろいろなものが一気に蘇ってきました。やっぱり怖くて仕方なかったんです。でも、これ以上逃げ続けるわけにはいかないと自分に言い聞かせて、ついに母のもとを訪ねました。
ーー実際に再会したとき、どんな気持ちでしたか?
喜連)正直、もう心がぐちゃぐちゃでした。8年ぶりに母と再会した瞬間、すごく嬉しかった反面、申し訳ない気持ちも強くて。でも、それだけじゃなくて、ただただ自分が情けなくなってしまって。「なんで今まで逃げていたんだろう」って。母は痩せていて言葉も発せられない状態だったのですが、ふっと笑ってくれたんです。介護の方が「久しぶりに笑いましたね、長男さんのことわかってるんやわ」と言ってくれたとき、病気のせいで脳が萎縮して思い通りに考えたり体を動かしたりすることはできなくなっているかもしれないけど、母はまだ僕のことを感じてくれているのかもしれないと思いました。
その瞬間、涙が止まらなくなりました。今まで感じてきた後悔や、逃げていた自分への怒りが一気に押し寄せてきて。でも同時に「向き合おう」という気持ちになりました。母の笑顔が僕にとって大きなきっかけだったんです。
一般社団法人Joyntの設立とファンドレイジングへの想い
ーー再会をきっかけに、何か行動や心の面で変化はありましたか?
喜連)ありましたね。再会してからは、「もう逃げない」と決めました。上京してからも、これからは母に会いに行こうって。病気を受け入れられなかった頃の自分に対しては後悔の気持ちもあるけれど、向き合いながら今できることをしようと思いました。だから、今度は自分と同じように何かに向き合うきっかけを求めている人たちのために何かしたいと思って、『一般社団法人Joynt』を設立しました。
ーー『一般社団法人Joynt』設立の背景には、やはりご自身の経験が大きかったのですね。どういった想いでこの活動を始められたのですか?
喜連)立ち上げた理由は、やっぱり自分が過去に向き合えなかったからこそ、同じように悩んでいる人たちの支えになりたかったからです。僕自身、母の病気を受け入れるまでに時間がかかったし、その間ずっと孤独を感じていました。でも、再会をきっかけに、「見て見ぬふりをしないこと」の大切さを学びました。だから、同じように苦しんでいる人たちに「大丈夫だよ」と伝えたくて。
人にはそれぞれ、踏み出す勇気を持つためのきっかけが必要だと思います。そして踏み出すことで、本来その人が持っている可能性が解き放たれて常に輝いている存在でいられるようになる。この『一般社団法人Joynt』がそのきっかけになります。
ーーその想いが、寄付ではなく社会課題に共感してもらいながら資金を集めるファンドレイジングという形での資金調達にも繋がっているのでしょうか?
喜連)そうですね。ファンドレイジングには特にこだわりがあります。僕にとって、ただ寄付をするのではなく、ファンドレイジングを通じて寄付を集めることには大きな意味があるんです。普通の寄付は、単にお金を渡して支援するという形ですが、ファンドレイジングはもっと多くの人に参加してもらいながら、問題を共有していく過程そのものが重要なんです。
ファンドレイジングには「みんなでこの課題に向き合おう」というメッセージが込められています。啓発イベントを開催することで、イベントを楽しみながら啓発内容に触れて寄付に繋がりますし、参加者の人たちは「自分もこの問題に取り組んでいる一部なんだ」と実感できて、その場で仲間意識が生まれます。寄付そのものは金額としては微々たるものかもしれませんが、そこに込められた想いは大きい。SNSなどを通して活動に込められたメッセージに触れることだけでも意味があります。だからこそ、僕はファンドレイジングを大事にしています。
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アルツハイマーを「治る病気」にするために
ーーファンドレイジングで集まった資金を、研究機関に寄付しているとお聞きしました。
喜連)僕たちが研究機関に寄付しているのは、アルツハイマーが“治る病気”になってほしいと本気で願っているからです。母がアルツハイマーを患った時に、どれだけ新しい治療法が待ち望まれているか、そしてそれを待つ時間がどれだけ苦しいかを知りました。だから、研究が進めば進むほど、同じように苦しむ人たちの未来が明るくなると信じています。
また、研究というのは、一人一人の意志や願いが繋がっていくことで、さらに加速していくものだと思います。研究者たちは日々新薬や治療法の開発に全力を尽くしている。でも、その努力を支えるための資金と想いが足りなければ、どれだけ志が高くても研究は進みません。だから、僕らが少しでも力になれたらと思って、ファンドレイジングを通じて集まったお金を寄付しています。それによって、研究を支え続けることが僕らのやるべきことだと感じています。
ーーなるほど。ファンドレイジングを通じて、人々の想いを繋げながら、未来の治療法に向けて支援を続けているのですね。
喜連)そうです。ファンドレイジングで大切なのは、単にお金を集めることではなく、そのプロセスの中で一緒に考え、一緒に行動する仲間を増やしていくことです。そして、そのお金が研究機関に届くことで、研究者たちの背中を押すこともできる。そうやって、少しずつでもアルツハイマーが「治る病気」になる未来に向けて進んでいけると信じています。特に9月21日の世界アルツハイマーデーに合わせて、毎年9月には啓発活動をしていきたいと思います。
母は今年2024年に亡くなりました。一生懸命に生きてくれたことを本当に感謝しています。だからこそ、母との思い出を自分の中で大切に繋いでいきます。何よりも自分の可能性を信じて楽しく明るく生きて、母の年齢の54歳を超えるというのが今の僕の目標です。
ーー現役アスリートながらいろいろなことに挑戦し続けている喜連選手。まわりからは「生き急ぎすぎ」と言われるかもしれないですが、それがこれまでの人生から得た喜連さんらしい生き方なんですね。Sports for Socialはこれからも喜連選手の人生と『一般社団法人Joynt』の活動を応援しています!