「河合紫乃という”ヒト”を見てほしい。」
元バドミントン選手、パラフェンシングの選手を経て、現在はパラバドミントンの選手として2028年ロサンゼルスパラリンピックでのメダル獲得を狙う、河合紫乃さんはそう言います。
「私には何が残っているんだろう」と悩み苦しんだ日々から抜け出し、人間・河合紫乃がたどり着いた、自身が生きる意味とはーー。
変わりたい、輝きたいという想い
ーーもともとバドミントン選手として活躍され、S/Jリーグでも活躍されていましたが、怪我による手術の後遺症がきっかけで引きこもりの生活になってしまいました。そのときのことを教えてください。
河合)あのときのことは誰も想像できないと思います。バドミントンしかしてこなかった人生だったので、怪我のために行った手術の後遺症により障がい者になりバドミントンを失ったとき、本当にどう生きていけばいいのかわかりませんでした。「私にはなにが残ってるんだろう」と考えてもなにも残っておらず「自分にはもう生きる意味がない」と感じてしまいました。
自分が障がい者になった姿を見られたくないという思いもあって引きこもりになり、手術で入退院を繰り返し、薬の副作用で体重は30キロまで落ちました。もう骨と皮という感じで、見た目も変わって外に出ることもできず、精神的にも限界でした。
心のどこかでは「変わりたい」「もう一度輝きたい」という想いはありました。でも、体がついてこないし、その状況から抜け出す方法もわからない。ご飯も食べられない、人とも喋れないという期間が3年ほど続きました。
ーー現在の明るいお話ぶりからはまったく想像できません。そこから抜け出せたのには、どのようなきっかけがあったのでしょうか。
河合)入院中に偶然見たテレビがきっかけです。大学の後輩が東京オリンピックに向けた国際大会で優勝した瞬間を見て、その姿に心動かされ「自分ももう一度輝きたい!」とより強く思うようになりました。
変わるにはスポーツしかないとは思っていたのですが、今まで行っていたバドミントンは昔の自分と比べてしまうことにもなるし、障がい者になった自分も受け入れたくないと感じましたし、新しい競技で世界を目指す方がかっこいいと思い、それ以外のスポーツを探しました。
ーーそこからパラフェンシングの道へと歩まれるわけですね。なぜフェンシングを選んだのですか?
河合)当時の私は握力も8キロしかなく、車いすテニスなどのチェアワークが必要なスポーツは難しかったんです。フェンシングは車いすが完全固定で、駆け引きのある対人競技だし「おもしろそうかも!」と直感で思って、自分でパラフェンシング協会を調べて連絡をしました。
ーー初めてのパラフェンシングはいかがでしたか?
河合)実は、初めて協会に連絡して「来てください」と言われた場所が最初から日本代表の練習でした。当時はまだ力がなく、750gの剣を試合時間の3分間持っていることすらできず。監督からも「ちょっと無理なんじゃない?」と言われましたが、そこで逆に火がつきましたね(笑)。「見返してやる!」という思いで、食べて、練習して、筋力をつけて、と2、3年はかけて力をつけていきました。「変わりたい」「ここから抜け出したい」という気持ちが常にあったから頑張れました。
パリへの険しい道をパラフェンシングで歩む
ーーその頑張りによって、パラフェンシングで日本代表になるところまでパフォーマンスを向上させました。「苦しかった状況から抜け出せた!」と思えたタイミングはどのあたりでしょうか。
河合)東京パラリンピックに出場できなかったときですかね。私がフェンシングを始めたときにはすでに選考レースが始まっていたり、新型コロナウイルスの影響もあったりして、世界ランキングが足りず出場できませんでした。
「もっと早く競技を始めていれば」と自分に対して大きな悔しさを感じたのは、“アスリートの考え方”に戻ったようにも感じました。その後、フェンシングの中でもサーブルという斬る動作があるものに変更し、パリ大会に向けて拠点も変えて取り組むようになったときには、「自分も変わることができたんだ」と実感しました。
ーーパラフェンシングの魅力はなんでしょうか?
河合)ずっと至近距離で、後ろにも下がれず、最初から崖っぷち。その状況で駆け引きとダイナミックさがあって、スピーディーなところが一番の魅力ですかね。
ただ、素人が見たらつまらないけれど、知れば知るほどわかるおもしろさがたくさんあります。
ーーパリパラリンピックへの挑戦を振り返って、いかがでしたか?
河合)正直苦しかったです。パラフェンシングの予選は、1年半をかけて国際大会を11大会戦います。世界ランキング8位までしかパラリンピックには出場できず、毎回の大会でメダル争いをするような順位にいないといけません。日本にはサーブルの練習相手がほとんどいないので、経験を積むために海外に1人で武者修行にも行きましたが、孤独で、苦しい戦いでした。結果的に世界ランキングがあと少し足りず、パラリンピックに出場することもできなかったので、応援してくださる方々にも申し訳ないという気持ちです。
ただ、自分の中ではやりきった感があって、ここがタイミングだと思い、パラフェンシングを辞めることを決断しました
左脚切断、そしてパラバドミントンへ
ーーパラフェンシングへの挑戦を終え、病気の進行のため左下肢切断を決断し、手術されました。その決断に至るまでの理由を教えてください。
河合)もともと車いすで、左足の感覚はほぼありませんでした。複数回の手術のどこかのタイミングで神経を損傷していたのですが、ストーブにあたりながら寝ていて火傷したことに気づかなかったり、練習中に車いすに体が激しくぶつかる衝撃によって脚が骨折しても気付けないことがありました。家の中はつかまって歩いて生活をしていたのですが、左足の感覚がないので、引っかかって転んでしまうということも増え始めました。壊死が進行して切断を決断しましたが、とくに不安はありませんでした。
ーーそのような事情があったのですね。スポーツの面では、手術後再びバドミントンの世界に戻ることが発表されます。「やりたくない」と思っていたバドミントンにもう一度挑戦すると決めた心境の変化はどのようなものがあったのでしょうか。
河合)フェンシングでのパラリンピックレースの最中に、ナショナルトレーニングセンターで昔一緒にプレーしていたバドミントン選手とばったり会いました。それがきっかけで、実業団のチームの練習に遊びに行かせてもらったとき、本当に久しぶりにシャトルを打ちました。日常用の車いすに乗りながらでしたが、どんどん感覚が戻ってきて。
そのときに感じた「バドミントンやりたい!私!打てるんだ!」という想いがどんどん強くなってきて、フェンシングからバドミントンへの転向を考えるようになりました。
障がいのことを世の中に知ってもらうという意味でも、バドミントンでまた世界の舞台を目指すことで、“記憶に残る人”になれるのでは?とも思いますし、自分にとってプラスになることばかりかもしれないと思いました。
ーーバドミントンにもう一度挑戦すると決めて何が一番変わりましたか?
河合)自分の中で、今までバドミントンはずっと苦しいものでした。楽しかったのは中学校までで、それ以降は純粋に楽しむものではなかったなと思います。
だからこそ今、バドミントンが好きで、すごく楽しいと思えていることを新鮮に感じています。昔バドミントン選手だった自分とも違っていて、どんどん進化していく自分がすごく楽しい。
もちろん結果も大切ですが、楽しみながら、ときには壁にぶち当たりながら進んでいく過程の部分も大事にしています。自分の脚を失っても、ここまで戻ってきた姿を見てもらうことが自分が障がい者である意味だとも思っていますし、たくさんの人に元気や勇気など、与えられるものがいっぱいあると思っています。
ーー楽しそうに取り組む河合選手、みんなが応援したくなります。
河合)よく「なんでそんなに楽しそうにできるの?」と言われます。多分、脚を切断した人がこんなに楽しそうにしている姿を見たことがないからだと思うのですが、私は楽しいんです!
バドミントン選手として失った8年間を取り戻すために挑戦していることも、自分の足で歩けているという当たり前だけど当たり前じゃないことができているということが、自分の中ではすごく幸せで楽しいですね。
ーーこれからパラバドミントンの選手として目指すところを教えてください。
河合)2028年のロサンゼルスパラリンピックで、日本人初の立位の金メダリストになるということが一番の目標です。車いすバドミントンは、チェアワークの技術がより重要になり、私にとっては上半身の負担が大きすぎました。
立位では、義足など補助具をつけて立った状態でプレーするのですが、自分の中で戦略や戦術が見え、世界と戦える!と感じています。
ーーこれからの河合さんのプレーでどのようなところに注目してほしいですか?
河合)“ラケットワーク”です。私には健常者としてやってきた技術があり、フットワークがまだまだな分、技術で戦おうと思っています。フェイントは、健常者の選手でもひっかかってしまうくらいで、「昔の選手時代よりも上手くなっているんじゃないか?」と思ったりもします。動けない分、頭も使い、技術で戦う。そんな私のバドミントンに注目してください!
まずは、今年12月に静岡で日本選手権があるので、そこで結果を出したいです。そして、2026年に名古屋で行われるアジアパラ大会でメダリストとなり、2028年のロサンゼルスパラリンピックでメダリストになります。
人間・河合紫乃が目指すもの
ーーセイリン株式会社との出会いを教えてください。
河合)2020年、鍼灸の治療をしてくださる先生に見せてもらった鍼のパッケージがきっかけです。そこにあった『SEIRIN』の文字が、新幹線で清水を通過するときに窓の外から偶然目に入りました。
調べると、清水エスパルスさんなどスポーツへの支援もしていて、当時フェンシング選手としてスポンサー探しをしていた私は、すぐにHPから連絡していました。
フェンシングは腕や腰、首への負担も大きく、鍼治療が私にとって欠かせない治療になっていたので、このご縁はとても嬉しかったです。
ーー2024年6月には、スポンサーではなくセイリンの社員として契約されました。
河合)私がフェンシングを辞め、手術をし、バドミントンへの挑戦を始めようとしていたタイミングで、結果もまだなにもない状態でした。ですが、「競技はどちらでもいいし、なんなら辞めてもいい。“河合紫乃”を支援するのだから」と言っていただけたのは、本当にありがたかったです。
河合)私自身、パラアスリートの河合紫乃ではなく、河合紫乃というヒトを見てほしいと常々思っています。その上で、バドミントンでパラのメダルを目指しているんだ!と知ってもらえたら。
バドミントンを失って何もなくなった過去がある私が、セイリンさんがそう思ってくださるように1人の人間としてたくさんの方に知っていただき、応援してもらえると嬉しいです。
ーーありがとうございます。応援しています!
河合紫乃さんが『鍼灸』をおすすめ!
皆さん、筋肉の“奥”の方が凝っていると思われることはありませんか?
私は鍼を初めて打ったときに、とても驚きました。それ以後、鍼はすごいと思って頼りにしています。
体の不調だけでなく、時差ぼけを解消したり、目を開かせたりするツボもあるくらいさまざまなツボがあります。先入観で痛そうなイメージがあると思うのですが、そんなに痛くないので、ぜひ一度試してみてほしいです!
写真提供:河合紫乃、セイリン株式会社