SMA(脊髄性筋萎縮症)と向き合って

はじめに編集者から

「いいとも企画」を引き続きやっています。インタビューする毎に学びがあり、このタスキを10人・50人・100人と繋げていけば、今と同じものを見ても、見え方や感じ方が変わるだろうなと思います。はじめたばかりでそう感じるのは、今まで接することのなかった人達とお話が出来ているからだと思います。

シモケンさん→廣道さん→青柳さん

スペシャルオリンピックスの青柳さんからご紹介頂いたのが、今回インタビューした川野陽子さんです。

川野さんは「SMA」という大病を患いながら、あっとほぅむぷれいすという大分県中津市の任意団体の代表を務められています。ポジティブで聡明で、話がうまい。とても楽しいインタビューでした。今回も宜しくお願いします!

――あっとほぅむぷれいすでどのような活動をされているのか、教えてください!

あっとほぅむぷれいすは障がい者の自立を障がい者が支援するための団体で、仲間づくりや、ソフト面・ハード面、双方のバリアフリーの啓発に取り組んでいます。

一歩踏み出せない仲間(障がい者)や障がいをもっていても自分らしい生活を送りたい方は沢山います。そういった方々を応援するべく、地域との交流を生みだし、誰もが気軽に集まれる場所として、「障がいのある仲間同士での交流会」や、「障がいのある人の合理的配慮や防災について考える学習会」などを行っています。

私の活動のキーワードは「仲間」と「地域への啓発」です!

私にとっての仲間とは

なぜ私が仲間の重要性に気が付き、こだわるようになったか、まず伝えさせて下さい。

私の病気は1歳で発覚しました。その時医者には、もって3歳までだろうと言われたほどの、重い病気です。母親は私と同じく、とてもポジティブな人なので、「いつか病気は治るだろう」と明るく接し、気がつけば40歳を超えても、この通り元気です!

元気ではあるものの、病気は重度です。そのため、6歳からは親元を離れて、学校としての機能も備えた大きな病院に入院しなければいけませんでした。病院と実家が離れていたため、親に会えるのは、週に1回だけになってしまいました。当時は父と母に会えない寂しさから、毎日泣いていました。そういった状況だったので、私にとって学校や病院の先生、クラスメイトは家族同様で、かけがえのない存在でした。彼ら仲間との会話の中で学んだこと、感じたことが今の私を作っていて、そういった生活環境で私は仲間の重要性を理解しました。

障がい当事者が声をあげる

ソフト面・ハード面のバリアフリーの啓発活動に注力しているのも、私の過去の経験からです。

私が養護学校に通っていた当時は、18歳になり高等部を卒業しても、ほとんどの人が入院生活を続けて、自分の才能を活かし、得意な絵や詩をかいたり、音楽活動をして過ごすのが一般的でした。しかし勉強嫌いの私は、得意なこと、これといった自信の持てるものがなかったので、卒業後の生き方にとても悩んでいました。そんな時、先生から「あせらず、できることやれば良いやん」と言ってもらえたことが救いとなり、自分のできることを模索しながら、できることから少しずつトライするようになりました。

そして高等部卒業から2年後の20歳になった頃、いくつかのきっかけがあり、

「今までは病院と学校だけの物凄く狭い世界で生活してきた」と思うようになりました。

そこで一般の短大に行って、健常者と生活をしたいと考えるようになりました。

とはいえ入りたいと思った短大も、当時は障がい者の受け入れに前例がなく、私の入学を認めるか、短大内で会議を重ねたうえで、無事入学が認められたような学校でした。入学するにあたって、短大は玄関にスロープを作ってくれたり、教室にはベッド、休憩室なども準備してくれたりと、私に必要な配慮をしてくれ、本当に多くのことを助けてもらいました。

それでも、どうしようもできないこともありました。1階から2階への移動です。さすがにエレベーターを設置するほどの予算はなかったみたいです。

初めは階段の前で誰かが声をかけてくれるのをずっと待っていました。しかし誰も声をかけてくれません。

その時、私は今まで病院で生活してきて、困ったら当たり前に誰かが助けてくれる環境にいたことを再認識しました。短大に通う健常者の人たちも、私になんと声をかけるといいのかわからなかったのだと思います。

けれど私はめげませんでした。ただ階段の前で待っているだけではなく、自分から通りかかる人に声をかけるようにしました。そうするとみんな快く助けてくれるんです。階段のおかげで会話のきっかけが出来て、友達も沢山できました。最高の短大生活を送ることが出来たんです。

この後、この短大では、障がい者の受入れを躊躇なく行えるようになり、障がいのある生徒が立て続けに入学していくことになります。私の入学がきっかけでいくつかの知見と最低限の設備を整えることが出来、それが後輩達の入学と学校生活に役に立っているのではないかと思います。

障がい当事者が勇気をもって、声をあげる。声をあげれば、きちんと相手は反応してくれることを私は知りました。

今できることは何か

今の私のあっとほぅむぷれいすでの活動は、幼いころからの入院生活や短大での経験や学びを活かして行っています。

声をあげる人が多ければ行政はきちんと対応してくれるんです。私たちの先輩はすでに沢山声をあげてくれています。そのおかげで、多くの病院や学校で障がい者の支援が出来るようになっています。私の幼いころは、自分の住む地域に病院がなく、親元を離れて暮らすことになりましたが、今の時代であれば、家族と一緒に住むことが出来たと思います。

これからは色々な地域でもっともっと声をあげるべきだと考えています。例えば私たち障がい者が、駅のバリアフリーを目的にエレベーターの設置など声をあげ、本当に設置されれば、障がい者だけでなく、高齢者や妊婦さんにとっても、使いやすく便利な駅、みんなに優しい町づくりへとつながっていくのです。

障がいがあるからこそできる役割、人助けがある。

私はそこに向き合って、仲間と手を取り合って、時には仲間になろうと声をかけながら、色々なチャレンジをしたいと思っています。

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